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設定、霊

 疲れた。でも特別なことではない。いつも疲れてるし。ぼくは疲れた、しんどい、という独り言をよくいう。同棲とかしたことないけど、もししたら同棲相手はうんざりする癖だろうな。
 この癖は、小学生の頃シャーマンキングの葉とか銀魂の銀さんとかジャンプの主人公っぽくないジャンプの主人公に憧れて始めた「設定」だった。加えて猫背、目つき悪いとかもこのとき自分自身に付加した「設定」だった、これ自体はむちゃくちゃイタいエピソードなわけだけど、困ったことに、その「設定」も繰り返していくうちに現実と区別がつかなくなる。ぼくは「イタイ設定」そのものの人間になってしまった。「設定」という現実的ではない「振り」すら、身体によって有限化されれば、それは現実と区別がつかなくなる。

 ここからシャーマンキングつながりで、「シャーマン」の方へ連想を進めてみる。

 シャーマンは自分自身に霊を降ろす。しかしシャーマンという存在において、降霊は本当に霊が降りている必要がないとしたら?「降りたことにする」という「振り」が事後的に「霊的なもの」を生成するのだとしたら?イタイ設定を降ろすオタク小学生と、シャーマン。その二つはそう遠い存在ではないのかもしれない。そして、あるいは「イタさ」と縁遠い「まともな身体」を持つ多くの人々の身体の動き、所作すらも、「振り」にしかすぎず、「設定」に過ぎないのだとしたら?「所作」、所を作る。

 霊的なものは世俗のなかに潜み、現実を賦活しているのかもしれない。しかしその霊的なものは思いの外、現実を書き換えるくらいの「リアルさ」を持っているのかもしれない。ぼくの身体はもはや「設定」と「現実」の区別をつけることができない。猫背、目つきの悪さ、「しんどい」、「疲れた」。身体にはたくさんの霊/「設定」が取り憑いている。

 明日はバイト帰りに食べっこ動物を山ほど買ってからちょっと遠出しないといけない。そういう予定を「設定」した。明日の「設定」を守るためにスーパーでの買い物はほどほどにしておいた。食べっこ動物って何円すんだかわかんないし。破産したらどうしよう。食べっこ動物破産なんて末代まで笑い物にされそうだ。一応多めにお金を下ろしておこう。


 


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