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『クモヨ島』/幾何学模様

 ぼくは1994年生まれなので、音楽を聴くといったらもっぱらCDで聴くことが多かった。わざわざCDケースから取り出してプレイヤーに入れるというめんどくさい工程を踏んだのだから、一曲だけ選んで聴くというようなことはあまりなくて、アルバムを頭から通して聴くことが多かった。つまり、その頃の音楽の経験というのは少なくとも40分くらいの時間感覚を持っていた。

 このアルバムも40分くらいのアルバムだ。LPのリリースはまだ先みたいなので、Apple Musicの配信開始日にパソコンからスピーカーに繋げて聴いたわけだ。だけれど、ぼくはこのアルバムを聴いて、「あの頃」、CDプレイヤーの前で味わった感動を思い出していた。アルバムという単位が失効しつつあるこの世界で、この作品は、「アルバム」という単位が持つ強度を力強く示している。 


 かつてアルバムを聴くという経験は、ひとつの通底する作家性を基点として、万華鏡のようにあらゆるテイストや色合いを経めぐるような、あっちこっちを引きずり回されて目眩がするような経験だった。『Kumoyo Island』は、スピリチュアルジャズ的、アンビエント的エッセンスや、フォーク、サイケデリックミュージック的な要素を併せ持っているが、今までの幾何学模様の作品の中で最もごった煮的でいかがわしいものだと思う。それはジャンルやスタイルとしてのサイケデリックミュージックというよりは、精神としてのサイケデリックミュージックだといえる。その「精神」が、『Kumoyo Island』においてひとつのアルバムとして、ひとつの音楽として結実している。
 幾何学模様はもともと歌詞を持たないバンドだが、今回の作品では、時たま日本語のような歌詞や英語のような歌詞が聞こえる。だけれど明確な意味をなす前に、その言葉は逃げ去ってしまい、何語かわからない鼻歌のような音韻の羅列が意味を煙に巻く。そしてその意味の切れ端や、音像のイメージがひとつの景色やニュアンスを残す。意味/ジャンルと無意味/ノンジャンルの間を横断しながら、そのあいだでひとつのニュアンスや景色を積み上げていく。
 このアルバムは、次の曲が流れる度にガラリと景色が変わり、色合いが変わる。ここにある音楽的な多様性は、あらゆるプレイリストにリーチするために存在する多様性ではなくて、ひとつの作品に閉じこもった多様性だ。『Kumoyo Island』は、アルバムを聴くことの喜びはもちろんのこと、アルバムを作ることの喜びを感じさせてくれる。

 ところで、『Kumoyo Island』というアルバムのタイトルは、その名の通り、Kikagaku Moyoの名前のあいだから取り出される形で作られている(Kikaga「ku Moyo」)。ちょうど意味を持たせすぎないように(Kikagaku Islandだったら意味を見出せそうだ)、だけど意味が全くわからないこともないような(Kumoyo=雲世?)、彼ららしいアルバムのタイトルだ。しかし、『Kumoyo Island』というアルバム名は、少なくとも日本語話者にとって意味を読み取ることができるバンド名、幾何学模様の意味を宙吊りにしてしまうだろう(Kikagaku Moyo?Kikaga Kumoyo?)。それに、この愛すべきごった煮アルバムの音楽的多様性は、幾何学模様の音楽性を余計わかりにくいものにしてしまうだろう。けれど、このアルバムはあらゆるイメージを、ジャンルを往還し、逃走するにしても、その多様なイメージやテイストはアルバムという輪郭において——そしてその周囲に群生するリスナーの音楽経験の記憶と共に——島国をなす。そのひとつのフォルムは、形は、名前や意味を読み取れたり、読み取れなかったり、ジャンルに当てはめれたり当てはめられなかったりする曖昧なものかもしれないが、間違いなくそこに「ある」、そのことだけは確かなのだ。

 ぼくはこのアルバムを聴いて、スピーカーの前に数十分音楽に拘束されてしまうことの喜びと熱狂を思い出した。この評価自体、CDやLPという、音楽をフィジカルな存在として愛好してしまう、ある世代に限定された感動なのかもしれないけれど、少なくとも、このような作品は、アルバムという単位への粘り強い愛がなければ作られなかっただろうし、アルバムという単位を愛し、待っているであろうリスナーがいなければ生まれなかっただろう。この作品と同じ時代に立ち会えたことを心の底から嬉しく思う。










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