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水辺にとどまる

 作業に煮詰まったから、というか、ここらで詰め込むのではなく少し放っておいて、仕上がりから距離を取って、最後のもうひと頑張りに取り組もうと思った。それで、なぜか水族館に行こうと思って、葛西臨海公園まで出かけてきた。
 実際に水族館に行って気がついたのは、ぼくはデカイ海洋生物にはあまり興味がなくて、もっと小さなものに興味があるということだった。いや、さらにいうなら、もはや海洋生物には興味がなくて、海よりもっと手前に棲息する生物が好きだということだ。

 海よりもっと手前というのは、例えば汽水域(海水と淡水の混ざり合う水域)の干潟や岩場、そして池沼、そういう場所のことで、具体的に生物の名前を挙げると、水の中を好まず岩場に住むカエルウオ、潮が引いた後の湿った泥の地帯、干潟に住むトビハゼ、池沼のクサガメやイモリ、そこらの生物のことだ。みな小さな体躯で、ささやかな特徴を備えている地味な生物ばかりだ。
 葛西臨海公園水族館はクロマグロの展示が目玉らしく、そちらにももちろん感動はしたのだけど、クロマグロのギラギラとしたメタリックな色合いや、何よりも潮の力を最大限に引き出すための尖ったフォルムは、なんだか見ていて疲れるものだった。クロマグロが回遊する水槽の前では水族館の係の人が何やら解説をしていて、クロマグロの身体が「泳ぐ」ということにおいてとても合理的なのだ、と盛んに宣伝していた。潮の流れに沿ってソフィスケートされた身体の無駄のなさ、格好良さ。

 そういうのも結構だし興味深いが、ぼくとしてはカエルウオやトビハゼ、クサガメやイモリを擁護したいと思いながら水槽を眺めていた。彼らの身体はマグロのそれと比べてなんだかホヤホヤしていて、柔らかそうで、洗練されていない。身体の重心は四方に散らばっていて、身体のラインには妙なデコボコが目立つ。
 これは動きを見ていてもそうだ。例えばカエルウオは、岩場の複雑な地形で海水を避けるために、尾ビレをくねらせながらジャンプし、吸盤かあるいは手足のように発達した胸ビレで着地する。トビハゼはカエルウオとフォルムは似ているけれど、カエルウオより動きはさらに地味で、基本的にはほとんど動かず、ぬぼーっとした表情をするばかりで、時たまゴロンと干潟を転がり、身体の湿りを維持する。トビハゼの展示の横には「まずは30秒間トビハゼをじーっと見てください。そうすると彼らが特徴のある動きをしていることがわかります」と書いてあるが、ほとんどの人はその文章を読まず、動かないトビハゼを一瞥して通り過ぎてしまう。
 多くの人が彼らの展示を通り過ぎてしまうのは、彼らの身体には、何か分かりやすい動きの型を最大限に引き出す特徴が備わっていないからだ。彼らは海という巨大な力と闘うことを下りてしまった生物で、泳ぐために存在したはずのヒレはジャンプに使われ、水中で呼吸するためのエラは退化している。彼らは「泳ぐ」という行為をその特徴とするところの魚としても中途半端だし、陸地で「走る」、「ジャンプする」という行為を披露する陸上生物としても中途半端だ。彼らは陸地に完全に進出し、速く走ることも避け、海に留まって速く泳ぐことも避け、その境である岩場や干潟にとどまり、中途半端な跳躍をしたり、干潟をゴロンと転がったりする。

 これは池沼に住むクサガメやイモリにも言えることだと思う。マグロの「泳ぎ」の洗練と比べて、彼らの泳ぎはとても中途半端た。彼らはもはやヒレですらない手足をしばらくバタバタさせ、その間はしなやかに水中を移動しながら、しかしその手足が水を掻くには中途半端な形状のため、水中を移動する身体はだらしない推力になり、緩慢なスピードで水中を漂う。彼らが持っているのはやはりヒレではなく、ヒレとしても使える手足に過ぎない。そのことがわかる瞬間のその「泳ぎ」から取り残された手足の無様さと可愛らしさ。
 しかしカメやイモリの、ヒレになったり手足になったりを繰り返すような泳ぎでも、池沼では「泳ぎ」として十分なのであって、彼らは海を知り洗練されてしまう必要がない。そして同じように、カエルウオは岩場にとどまり、トビハゼは干潟にとどまる。ぼくはそれがとてもいいことのように思った。

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 明日からしばらくのあいだ、制作に専念できる時間が取れるのでまた制作に戻ることになる。そしてぼくらは水辺に生きる彼らのように、海に行くつもりなんてさらさらない。ヒレなのか手足なのかよくわからないものをブラブラさせ、干潟をゴロンと転がり、岩場を力弱く跳び回る。ぼくらは海に行かない。ぼくらは水辺にとどまる。

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