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ゴッチ『朝からロック』とアジカンと、転がる岩と路傍の僕の人生と

 アジカンのツアー『サーフ ブンガク カマクラ』の名古屋公演を見た。

 そのライブが素晴らしすぎて、感情をぐわんぐわんに振り回され、たまらずストロングゼロのロング缶を2本あおったのでアジカンと僕の人生を振り返ろうと思う。あと、ゴッチが最近出した著書『朝からロック』も良い感じに褒めてみようかなと思う。

人生で鳴り続けている音楽

 誰しも、自分の人生の色んな場面で鳴り続けている音楽があると思う。
アジカンは僕にとってその一つだ。

アジカンとの出会い

 はじめて出会ったのはたしか中2のころとかで、『ループ&ループ』を深夜番組の若手バンド紹介コーナーかなにかで観たのが最初。当時、僕にはまぶしい音楽に見えてしまい、ほとんど気にも留めなかった記憶がある。それから高校生になるにかけて、アジカンはあっというまに人気の絶頂期を迎え、まわりの同級生が全員聴いているバンドになっていた。当時の僕はというと「銀杏BOYZだけが俺の真実を歌っている」と確信していたため、売れまくっていたアジカンはどちらかというと「鼻につくバンド」という認識だった。でも、iPodになぜか『ソルファ』だけは入っていて、自転車通学中にたまにイヤホンから流れてきては「ふん、ちゃらちゃらしてるな」と毒づきながら内心いけないことでもしているような気持ちでわくわく聴いていたのを覚えている。

暮らしの音楽

 その後、大学生になっていろんな音楽や本に触れたりするなかで、アジカンに対する先入観はすっかり剥がれ落ち、iPodからレベルアップしたiPhoneにはアジカンのアルバムが一通り揃っていった。通学時、テスト勉強、ランニング中、バイトに向かう道すがら、就活に揺られる電車、卒論を書く自室、暮らしの色々な場面で自然とアジカンが流れるようになった。今でも大学時代に自転車で上り下りしていた坂道を通ると、『遥か彼方』や『新世紀のラブソング』なんかがうっすら遠くで聴こえる気がする。

 社会人になってからは野外フェスとかでアジカンのライブを見る機会も出来始めて、やがてワンマンライブにも足を運ぶようになった。ただ、2013年ごろとかは正直なところ「まあまあ好きでよく観るバンド」ぐらいの存在だった。でもここ5年ぐらいのアジカンは本当にすごくて、自分が死ぬとき走馬灯が5分ぐらい流れるとすると、4分半ぐらいはここ5年のアジカンのライブになるだろうなぐらいにとにかくすごい。このキャリアなのにまだまだ進化するどころか加速すらしているようで、本当に豊かなライブでとにかく圧倒される。これ以上褒めようとすると小2に毛が生えた程度の語彙がバレるのでこのぐらいにしておいてやるが、とにかくすげえ(小2に毛ははえない)。

 名古屋公演で印象的だった場面がある。

路傍の片隅まで照らすアジカンの音楽

 ゴッチはよくライブのMCで「自分らしく楽しんでいってね」と言う。

 名古屋公演でも言っていて、ファンからすれば「おうよ、ありがとう」といった具合でお決まりのMCという感じ。僕はこのMCがとても好き。

 一方でゴッチは、自分たちのことをなかば自虐的に「路傍の石ころ」と言ったり、「正統派じゃない」というように表現したりすることがある。

しかし、いわゆるロックをある種の不良性から奪還(追記:解放と書いたほうが正しいかも)したことはひとつの成果なのではないかと『ぼっち・ざ・ろっく!』を観ながら思った(3/15追記。自分たちの偉業!みたいな気持ちはなくて、そういう流れの一端を担ったのでは?と考えています。大袈裟に書きすぎましたね)。俺たちはロックが持つある種のドレスコードに反発していた。それは華美な衣装や化粧だったり、革ジャンのイメージだったり、あるいはハーフパンツとクラウドサーフだったりした。デビュー当時は「あんなのはロックじゃない」と散々言われた。傷ついたこともあったが、その言葉こそが燃料だった時代もあった。陰キャという自覚はないけれど(だってそれはドレスコードが仕向けたバイアスとキャラだろう)、拗れていたことは確かだ。今はすっきりと、ありのまま音楽に向かっている。楽屋でゲラゲラ仲間たちとやり合ったテンションのままステージに上がり、俺たちにしかできない音楽を鳴らす。

ドサクサ日記 12/5-11 2022|Masafumi Gotoh (note.com)

すべてのバンド/アクトを袖で観た。それぞれの魅力が発露されていて眩しい。エルレとWANIMAは最初から最後まで観た。どちらも真っ直ぐにエネルギーを客席に放っていて、幸せな気持ちになる。こういうバイブスは誰にでも出せるものではないと思う。(中略)エルレから続くような眩しいロックの系譜。溌剌としたヤンキーと書くと荒れたり燃えたりするのかもしれないけれど、こういうサウンドはひとつのロックの花形で、何度も書くが熱くて眩しい。彼らが照らしている膨大な人々の人生を思うとグッとくる。ワンオクもウーバーもWANIMAも、どこまでも突き抜けてほしいなと思う。酒場の片隅で、自分は石ころのようだなと滅入ったが、自分らしく転がって行きたい。

ドサクサ日記 8/28-9/3 2023|Masafumi Gotoh (note.com)

 僕はゴッチの「自分らしく楽しんでいってね」というMCは、路傍の石を照らす光だなと感じる。

 たとえば日本のバンドのライブに行くと、みんな同じタイミングで手を上げたり手拍子をしたり、MVの振り付けを踊ったり、忙しそうにライブを観ている光景に出会える。これはこれでもちろん楽しい。でも、こういう「眩しい」楽しみ方ができない人間もやっぱりたくさんいる。

 ゴッチのMCは眩しい楽しみ方を否定しない。でも、路傍の僕たちにも光をあてて「自分らしく楽しんでね」と肯定する。僕はゴッチのそのMCが結構自分の感情な繊細な部分にばちんと刺さってしまうので毎回けっこう照れくさいのだけど、めちゃくちゃ好き。ゴッチもゴッチで多分毎回ちょっと照れてる。これぐらいの距離感でいる関係もすごくいい感じだな、と思う。

奇跡の時間

 このMCに関連して、名古屋公演では、アンコール前にやった『和田塚ワンダーズ』~『ボーイズ&ガールズ』に奇跡的な時間があって立ち尽くしてしまった。
(なお僕はそもそもライブの中盤のMCと『日坂ダウンヒル』で感情をぐわんぐわんに揺さぶられてもう既にギャン泣きしていた)

 うまく言えないけど、メンバー全員がそれぞれを全面的に信頼し、信頼されあっている、それを確かめ合っている、そのうえで今その瞬間にしか出せない音を出している。そんな奇跡の時間がたしかにあった。

 他ならぬアジカンのメンバーたち自身が"自分らしく"楽しみ、アジカン全員が人生を掛けた"路傍の石の音楽"が、"路傍の僕たち"を照らしていた奇跡の時間。
 もちろん僕が勝手にそう読み込んでしまっただけかもしれないけど、僕はたしかにあの瞬間に、自分の人生に感動していたし、アジカンのロードムービーに感動していたし、それらが共鳴したように感じられたことに感動していた。

後藤正文『朝からロック』

 ここでようやくゴッチの新著『朝からロック』の宣伝なのだけど、実際これを読んだことがきっかけでさっき書いたようなクソデカ感情に成長した側面は否めない。

バンドには、特別な技術を持った演奏家はひとりもいない。それでも、それぞれが掛け替えのない人生を持ち寄って演奏する。そこで鳴り響く音楽は、僕たち以外の誰にも表現できないだろう。

後藤正文『朝からロック』P.70-P.71

 名古屋で観た奇跡の時間はまさに人生が共鳴しあっているという類の音だったし、音楽にはそういう、無関係だった人間の人生が共鳴しあえる・寄り添いあえる力があるように思う。(たぶんどっかでゴッチも書いていた気がする)

たぶん僕が観たあの時間以外にも、多くの人たちにとってそれぞれのタイミングで、自分の人生を共鳴させた時間があったんだろうなと思う。

Live Forever

 名古屋で「メンバーの誰かが死んだらスパッとアジカンをやめる」といっていたのは、半分以上本心の言葉なんだろうな、と思った。アジカンの奇跡の時間は、それぞれの人生を持ち寄って初めて鳴る音だという確信がゴッチにはあるはずだから。もしその時が来たらすごく悲しいけれど、それこそ、これだけの路傍の石の人生を照らした音楽は"Live Forever"だろうと思う。

 すべてのバンドにはそれぞれのロードムービーがある。自分の人生にもまた、それぞれの仲間とのロードムービーや物語がある。エルレやWANIMAに照らされて共鳴する人生もあれば、アジカンに共鳴する人生もある。

思えば僕の人生ではずっとアジカンが鳴っていたし、たぶんこれからも結構鳴っていると思う。2023年は『サーフ ブンガク カマクラ』が個人的ベストで死ぬほど聴いたので、Spotifyで一番聞いていたアーティストがアジカンになっていた。ちなみにさっきから名古屋の話をしているが、僕はそもそも東京在住で名古屋にはこのライブ見るために2回新幹線で往復しているのだけど、もちろんその新幹線の車中でも鳴っている。僕が生きている間は少なくともアジカンの音楽は確実に生きている。

エッセイストとしてのゴッチ

 話がそれたので『朝からロック』の話に戻る。そもそも、僕がアジカンのファンである以前にゴッチのエッセイはマジで超おもしろい。小1の語彙でいうけど、マジで。

ネットオークションでアメリカ人に騙される話とか、牛丼屋の店員に感情移入する話とか、村上春樹のエッセイとかの「かわいいおっさんめ」と思いながら読むのに近い感覚で読める。

 一方で、新型コロナウィルスの脅威について僕たちと同じように戸惑い、恐れ、怒り、日本に生きる一人の大人として、影響力あるミュージシャンとしての責任だったりに悩む心境も整然と綴られていて、ひとりの大人として刺激を受ける。この辺は本当はもう5000字ぐらい語りたいことがある。震災やコロナを取り巻くゴッチや仲間のアーティストたちの活動は本当に豊かだし、これこそカルチャーってやつだろ、という取り組みが本当にたくさんある。

 本当におすすめできる本なので、ぜひ。

 ちなみにさっきから何回か紹介しているnoteのドサクサ日記もまじで超おもしろい。まじで。超。

 機会があったらこれもそのうち紹介したい。

おわりに

酔っぱらって書き始めたのでいくぶん恥ずかしいこともたくさん書いたが、とくにあらためない。あらため過ぎると大事なバイブスがこぼれ落ちてしまう気がするのでなるべくそのままにしておいた方がいい気がする。

恥ずかしさが様々な方向から湧き上がってきて途方にくれそうになる。けれども、人前で自作のロックソングを歌ってみせることに比べたら、飛び越えないといけないハードルはむしろ低く、社会的にも意味があることなのではないかと思う。
 ここ数年はずっと恥ずかしい。
 すでに顔は真っ赤で鏡を見るのも恐ろしいけれど、かつての自分が恥ずかしいのは、社会が良い方向に変わっていく証だと思う。

後藤正文『朝からロック』まえがき

このまえがき、はちゃめちゃに良いでしょう。そういうわけです。酔いが覚めて冷静になったころにいきなり消すかもしれないけど、この恥ずかしさは乗り越えるべきハードルと理解している。

あと、『ボーイズ&ガールズ』は5億回は再生されて良いはずのド名曲だから再生数まわしてくれよな!!あばよ!!



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