正解のない時代のリーダーシップ

現代、そして未来は正解のない時代であると言われる。
僕個人としては、そのように言われる背景には、国の成熟化が一つ大きく関わっていると解釈している。

明治維新以降は、欧米に追いつけとばかりに、殖産興業・富国強兵・文明開化というスローガンを国家が掲げた。
その後、日清・日露戦争において、日本などが勝てるはずがないと考えられていた大国に勝利し、強国の仲間入りをした。
そのまま、第一次世界大戦を経て、国家総動員の太平洋戦争に突入し、国民一丸となって戦った。
敗戦により焼け野原になったが、朝鮮戦争特需などもあり、「もはや戦後ではない」というフレーズや、所得倍増計画という政策とともに、再度日本はのし上がった。
その後、バブルに突入し、ジャパン・アズ・ナンバーワンと言わしめるほどの、逆転を成し遂げた。

つまり、明治維新以降、人々の目的は国家が設定してくれた。
明治維新以前は、封建的社会であるから、そもそも個人の目的や目標という概念が希薄であったと言える。
個の時代として目標や夢を求められるようになったのは、おそらく明治維新以降だ。

バブル崩壊により、経済は停滞したが、それまでに衣食住の製造や流通、その他インフラは整ったため、食うには困らない社会になった。
国としては成熟し、国家として分かりやすい目的や目標設定をして、国民を鼓舞することは難しくなった。
だから、個人がそれを定める必要が出てきた。
衣食住に困らない時代の目的設定は難しい。
目には見えにくい、精神的な充足を求められるからだ。

それが、正解のない時代と言われる所以の一つであると考えている。
もちろん、グローバル化や、技術革新の加速による変化の早さも要因ではあると感じる。
しかし、何を求めていいのか、どこに向かえばいいのか、という課題を生み出しているのは、分かりやすい不足がなくなりつつあることが大きな要因ではないかと感じる。

前置きが長くなったが、そのような時代におけるリーダーシップは、それ以前の社会とは異なる先導の仕方が求められると感じる。
なぜなら、正解や成功を保証できないからだ。
スタートの時点では、リーダーもゴールを明解に語れないだろう。
そして、たとえ明解に語れたとしても、そこにたどりつけない可能性が高いし、途中で違うかもと思うこともあるかもしれない。

そのような状況においては、リーダーは、その人自身の魅力で惹きつけるしかないのではないだろうか。
プランやビジョンだけではなく、この人となら一緒にやって楽しそう、たとえ失敗しても後悔しなそう、といった感情的な魅力だ。
たとえ、成功によって対価を得られなくても、その過程自体が楽しく、その過程自体が目的と感じられるようでなくては、挑戦に踏み切れないのではないだろうか。

僕は誰とやるかよりも、何をやるかを重視するタイプだが、ここに来てこんなことを考えるとは思いもしなかった。
まさに、正解のない変化の激しい時代だ。

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