見出し画像

『白磁のアイアンメイデン』外伝 「相応しき贈り物を、聖夜に」

 紅い光が、闇の中を駆けていく。
 北欧、白夜の国――フィンランド。常ならば国土全てを包み込む静寂が、今宵は瀑布のような音に妨げられていた。
 轟音の主は、追われる一頭の獣と、追う十数匹の獣である。
 逃げる獣はトナカイ。追うは群れをなす十数匹のムースヘラジカ。深い闇夜に白銀の煙を巻き上げながらの、一対多、命がけのチェイス。
 トナカイの息は荒い。当然であろう。なにせ彼女はこの五日五晩、不眠不休、飲まず食わずで走り続けていたのだから。
 尋常の生き物には不可能な、超長時間の逃走劇。だが彼女は並のトナカイなどではなかった。彼女こそは「赤鼻のルドルフ」。聖人サンタクロースのソリを引く、九頭の聖獣の一体である。
 ルドルフの鼻先が、炎のごとく紅く輝く。北欧の冬の夜は、あらゆる光を飲み込む真の闇である。彼女が速度を落とさず走り続けられてきたのは、ひとえにこの光がためであった。だがこの光こそが、追手に彼女の位置を示す道標ともなってもいたのだ。
 ルドルフの足がもつれる。転倒寸前で立て直す。ムースたちとの差が劇的に縮まる。
 もう、限界だ。
 そう考えた瞬間、ルドルフの膝から力が抜けていく。彼女を支えてきた気力の底が、ついに抜けたのだ。
 膝下まで積もる白雪に、ルドルフは頭から倒れ込んだ。
 雪に顔を埋めたまま、ルドルフは唇を噛んだ――自分はこのまま、この汚らわしいケダモノどもに喰らい付くされてしまうのだろう。それはいい。覚悟の上だ。そんなことよりサンタ翁だ。無事に逃げのびてくれたのだろうか。そうでなければ、私が身を捨てた甲斐がないというものだ――。
 ムースたちがルドルフを囲む。そのうちの一体が、ルドルフの体に手をかけ――。

「お待ちなさい」

 北欧の夜闇に、凛とした声が響き渡った。決して大声ではない、だがそれでいて、無視することなど決して叶わない・・・・・・・・・・・・・・・ような、不思議な力を秘めた声だった。
 だからだろう、数十頭のムースたちは、声のほうを一斉に振り返った。ルドルフさえも、残り少ない気力を振り絞り、顔を上げ、声の主を確かめようとした。

 だが。
 声の主を見た瞬間、ルドルフは自分の残り少ない気力が蒸発してしまいそうな気分に襲われた。なぜなら、彼女の視線の先にいたのは「銀世界の真ん中に高級そうなテーブルセットを持ち出し、そこで優雅に紅茶をたしなんでいる赤いドレスのお嬢様(執事とメイド付き)」だったからだ。
 ルドルフは恥じた。自分が追い詰められた挙げ句、情けなくも狂気に陥ってしまったと思ったからである。
 お嬢様は手にしていたカップを置くと、優雅に立ち上がった。そのままルドルフたちに向かって歩みだす。雪の深さをまるで気にさせない足取りだった。そのことがまた、ルドルフから現実感を奪っていく。
 美しい女性だった。白磁の肌。アイス・ブルーの瞳。赤い唇。腰まで伸びた黒髪。赤地に白の幾何学模様が縫い込まれたドレス――どこからどう見ても、北欧の雪原に存在していい人物ではなかった。
 お嬢様は2メートルほど離れたところで立ち止まると、微かに微笑んだ。
『何者ダ、女』
 ムースの一体がお嬢様に問いかける。
「お初にお目にかかりますわ。わたくし、ベアトリス・スカーホワイトと申します……お取り込みのようですが、少々よろしいでしょうか?」
 ベアトリスは返事も聞かずに歩み始め、ルドルフのそばで片膝をついた。
「詳しい事情は存じませんが、お困りのご様子でいらっしゃいますわね」
「あ、ああ。そうだが……あなたは一体」
「お困りの方を見過ごせぬ者、ですわ。ああそれと」
 ベアトリスは立ち上がり、先程とは違うたぐいの笑みを――不敵な笑みを浮かべて言い放った。
「ティータイムを妨げる無粋な輩に、鉄槌を加える者でもありますわね」
 その瞬間、彼女がまとうドレスが体に巻き付き、タイトなボディラインをあらわにする。腰まで伸びた黒髪が、瞬時に肩までの長さに縮まった。
 ベアトリスが深く息を吸い、深く息を吐いた。
「さあ、参りますわよケダモノの皆様方。打ち倒し、平伏させ――そして踏んで差し上げますわ・・・・・・・・・・
 刹那、ベアトリスが跳ぶ!
 鈍い打撃音、ムースの一体の鼻面にヒールのかかとが打ち込まれた。ベアトリスはのけぞるムースの顔面を足場にし、星一つない闇夜へと跳躍する。ベアトリスの姿が闇に溶けた。ムースたちが彼女の姿を見失い、狼狽する。
 闇夜を切り裂いて、流星のごとき蹴りが降ってきた。ムースの一体が、自慢の角を根本からへし折られ、おぞましい叫びを上げる。
 地に足をつけることなく、ムースたちを足場にしながらベアトリスは跳躍を繰り返す。彼女が闇から降ってくるたびに、ムースたちの断末魔の叫びが響く。
 程なくして、ようやくベアトリスが雪の大地に降り立った。残心を決め、息を吐く。そのときには、その場で立っていた者は彼女一人と成り果てていた。
「これに懲りましたら、他人のお茶の邪魔は慎んでくださいまし」
 そう言ったベアトリスの髪が腰まで伸び、ドレスが元の姿に戻るのを見届けると、ルドルフの意識は深い闇へと落ちていった。

「……!」
 ルドルフが目を覚ます。慌てて周囲を見回し、そこがよく知った場所であることを確認すると、彼女は安堵のため息を付いた。
「ここは……サンタハウス……どうして……?」
「お目覚めになりましたか」
 ベッドの脇に小さな椅子が置いてある。ベアトリスはそこに足を組んで座り、紅茶を味わっていた。
「あなたは……なぜここに?」
「ワシがお連れしたのだ」
 不意に聞こえてきたその声を聴いた瞬間、ルドルフは満面の笑みを浮かべた。そのままベッドを飛び出すと、声の主へと抱きついていく。
「こらこら、お前はまだ安静の身なんじゃ。そんなにはしゃがず大人しくしておれ」
「サンタ翁! よくぞご無事で!」
「お前のおかげじゃよ……お前が囮となって、ワシらを逃してくれたからこそ、みんな無事にここまでたどり着くことができたのじゃ」
 そう言いながらルドルフの頭を撫でる老爺は、ふくよかな体型を赤と白の衣装に包み、豊かな髭を蓄えていた。
「みんな……ということは」
「あ、ルドルフが起きた!」
 今度はまた、別の声が部屋に響く。
「ダッシャー! ダンサー! プランサー! ヴィクセン! コメット!  キューピッド! ドンダー! ブリッツェン! おまえたちも無事だったのか!」
「あたりまえだろ!」
 部屋に乱入してきた八頭のトナカイが、一斉にルドルフに飛びかかり、彼女をもみくちゃにする。広くもない部屋が、心地よい喧騒で満たされていく。
「……あ、そうだ。サンタ翁。ご紹介したい人がいるんだ」
 ルドルフはトナカイたちの輪から抜け出すと、ベアトリスとサンタ翁を交互に見た。
「この方のことかね? ならば紹介の必要などないぞ。なにせこの方こそが、倒れてしまったお前をここまで連れてきてくださったのだから」
「え、そ……そうなのか?」
「ええ。意識を失っていらっしゃる間、うわ言のようにこの場所をつぶやかれていらっしゃいましたので、お連れするのは容易でしたわ」
 ベアトリスは軽く微笑むと、サンタ翁に視線を移した。
「……そして、あなた方のご事情もうかがいました」
 その言葉に、サンタ翁の表情が曇る。
「少し整理いたしますわね。あなた方『サンタクロースとトナカイたち』は、救世主の生誕を祝う祝日に世界中の子供達にプレゼントを配って回る、慈善事業・・・・のようなことをなさっていらっしゃるのですわね」
「じぜん、じぎょう? あんた、まさかクリスマスを知らないのかい?」
「ええ。生憎わたくし、ここよりずいぶんと遠く・・・・・・・から参りましたものですから、この地の風習には疎いのですわ」
「この地の風習って……」
「ともかく」
 ベアトリスが柔らかく、しかし力強い声で話を進める。
「その風習があまりにも長いこと続いたためか、意図せぬ不具合が生じてしまった、ということでしたわね」
「そのとおりじゃ」
 サンタ翁は深いため息をつく。
「たしかにワシは、世界中の子供達にプレゼントを配って回っておった。いや、配って回っておったつもりじゃった。だが実際には、ワシの目の届かぬ子どもたちも、世界中にはたくさんおったのじゃ」
 語り続けるサンタ翁の周りに、トナカイたちが心配そうな顔をして集まってきた。
「そんな子どもたちの恨み、妬み、悲しみ……それらは長い年月を経て凝り固まり、いつしか邪悪な意思を持つ存在と成り果ててしまったのじゃ……そう、『黒いサンタ』ことジャアクサンタに!」

 その名を告げた途端、サンタハウスが大きく揺れうごいた。
「なんじゃ!?」
「何! どうしたの!?」
「お静かに皆様。どうやら招かれざる客人のようですわよ」

「もしかして、サンタハウスの障壁ホーリー・ウォールが破られちゃった?」
「いや、そうじゃないみたい……って、嘘……でしょ……」
 トナカイたちは慌ててサンタハウスから飛び出した。そして、そこで見たもののせいで言葉を失ってしまった。
 サンタハウスの外にいたのは、身長150メートルはある、超巨大な黒いサンタクロースであった。右手に持った斧を、サンタハウスめがけて執拗に振り下ろしていた。サンタハウスを囲む、目に見えない障壁が阻んでいたため、直接の被害はまだなかった。だが、斧が放つ衝撃の激しさは、障壁がそう長くは持たないだろうことをはっきりと示していたのである。
「なんということだ……子どもたちの、子どもたちの恨みは……ここまでのものになってしまっていたというのか」
 サンタ翁が、力なく地面に膝をついた。
「驚きましたわね。これではさすがに、おいそれと踏んでやるわけには参りませんわ」
 ベアトリスがさほど驚いていないような口ぶりでつぶやいた。
「とは言え、このまま斧で両断されるのを待つわけにも参りませんわね」
 ベアトリスは目を閉じ、思考を巡らせる。
「……流石にあの巨体、殴る蹴るではどうしようもありませんわね」
 ベアトリスは目を開けた。そのアイス・ブルーの瞳には断固たる決意が宿っていた。
「不本意ではありますが、切り札・・・を切らねばなりませんわね」





「待てい!」
 そのときである! 闇夜を切り開く一喝が、北欧の空に響き渡ったのは!
「その声は……服部半蔵さま!?」
「然り!」
 半蔵さんは跳躍、空中三回転を決めるとベアトリスの隣に立つ!
「異国の女戦士よ、ここは一つ、拙者の忍術にお任せいただこうか」
 言うなり半蔵さんは九字を切り、不可思議な呪文を唱え始める!
「オン・キリクシュチリビキリ・タダノウウン・サラバシャトロダシャヤ・サタンバヤサタンバヤ・ソハタソハタソワカ! 喝!」
 おお、おお、見るが良い! 半蔵さんの唱える呪文に合わせ、周囲の雪が逆巻く渦となって集い始めたではないか。そして雪は怒涛となり、うず高く積み重なっていき――いつしかそれは、黒い巨大サンタに負けぬほどの体躯を持つ人型へと変貌していたのである!
「これぞ伊賀忍法奥義、『鬼傀儡おにくぐつ』なり!」
 半蔵さんはそう叫ぶと、ベアトリスを見た。その視線にこもる力強さを感じ取り、ベアトリスは己のなすべきことを理解した。
「このお力、ありがたくお借りいたしますわね!」
 ベアトリスは跳躍、不思議な力により巨大雪像の中へと吸い込まれていった。
 雪像の目が見開く。腰を落とし構えを取る。前へと突き出した左手で、挑発的な手招きをしてみせた。
『さあ、かかっていらっしゃいな』
 巨大ジャアクサンタが吠えた。
 手にした斧を雪像に向かい振り下ろす。雪像は巨体に似合わぬ速度で踏み込み、柄の部分を左腕で受けた。空気が震える衝撃音。斧の刃が、雪像の額の直前で停止する。
 雪像は右の正拳突きを繰り出す。ジャアクサンタの胸板にクリーンヒット。たたらを踏むジャアクサンタに追撃しようとし、雪像は大きく踏み込むと――急ブレーキ、体を後ろへとのけぞらせる。さっきまで雪像の頭があった空間を、横薙ぎの斧が通り過ぎていく。
【プレゼント、プレゼントが欲しいよおおおお!!!】
 ジャアクサンタは斧を振り回す。狙いは雑だが、力と速さがのった攻撃は十分に脅威であった。
『はっ!』 
 雪像は気合とともに拳を、蹴りを打ち込んでいく。ジャアクサンタはそれを一切防御せず受け止め、そのまま反撃の斧を打ち込んでくる。
 そういった攻防がひとしきり続いた時点で、雪像の中のベアトリスは悟った――打撃を打ち込んだときに感じる、この感触……なるほど、このお相手を倒すこと、おそらく暴力では叶いませんわ。
『サンタ様! トナカイの皆様!』
 ベアトリスは、圧倒的な攻防を見ているだけしかできないサンタクロースたちに声をかける。
『このジャアクサンタとやら、どうやらひどく悲しくて、まるで子どものように泣いていらっしゃいますの。拳から、足からそれが伝わってまいりますわ』
「なんじゃと……!?」
「そこで皆様方に、お願いがございますの。わたくしはこのままこれを足止めいたします。それがこの場でわたくしにできることですから。だから皆様方には、皆様方にしかできぬことをなしていただきたいのですわ」
「ワシらにしか……できぬこと……」
 その言葉を聞いたサンタクロースの顔に、決意が満ちた。彼はトナカイたちを見回した。どの顔も、サンタクロースと同じたぐいの表情を浮かべていた。
「やろう、サンタ翁。私達にしかできないことを!」
 ルドルフが駆け出した。駆けゆく先には、古びた木造のソリが放置されていた。

【プレゼントプレゼントプレゼント、プレゼンンンントオオオオ!!!】
 ジャアクサンタの振り回す斧が、その勢いを増していく。雪像はそれを受け、躱し、時折打撃を打ち込んでいた。一進一退の攻防――お互いに決め手を欠いている、とも言えるものだった。
「むう……!」
 半蔵さんが唸る。ひたいに一筋の汗が流れる。彼は雪像の形を維持するのに膨大な忍力を費やしていた。恐るべき忍術と言えるだろう。だが彼とて、一人の人間である。このまま無限に術を維持できるはずなどなかった。
「そう長くは、持たぬぞ……!」

「HO HO HO!」
 その時である! フィンランドの夜空に、朗らかな笑い声が響き渡ったのは!

 そう、無論サンタクロースである! トナカイたちに引かれ、空をかけるサンタクロースのソリは、ものすごい速度でジャアクサンタの頭上にたどり着く!
「待たせたのう! ほれ、プレゼントじゃぞ!」
 サンタクロースは手にした麻袋から、ありとあらゆるオモチャをジャアクサタンめがけて振りまいた! カードゲームが、サッカーボールが、絵本が、ブリキの人形が、お菓子が、子犬や子猫が――ジャアクサンタに降り注ぐ!
【プ、プ、プレゼント!】
 ジャアクサンタはプレゼントに手を伸ばす。指先がゲーム機に触れ――触れた箇所が光となって消えていく。
【プレ、プレゼント! プレゼントオオオ!!!】
 ジャアクサンタは、一心不乱にプレゼントを掴み取ろうとし、少しずつ光と化していっていた。小さく、小さくなっていき――やがて最後に、光に包まれた小さな少年の姿へと変わっていた。
【プ、プレ……】
「ほうれ、サンタさんからのプレゼントじゃぞ」
 少年の近くへ通りてきたサンタクロースは、靴下に入ったプレゼントを少年に手渡した。
 少年はニコリと笑うと、光に包まれ――消えていった。

「本当に、本当にありがとう。あなたのお陰で、ワシらはまた頑張れそうじゃ――そう、この世界には、まだまだワシらがプレゼントを届けなければならぬ子どもらがたくさんおる」
 サンタクロースはベアトリスの手を握りしめ、興奮した口調で話しかけていた。
「今度こそワシは、いやワシらは、一人残らずプレゼントを届けてみせよう――この白ひげに誓ってのう!」
「素晴らしいことだと思いますわ、ご老人。相当なご難行だと思いますが、今のあなたがたならば必ず成し遂げられますわ」
「うむ! ではさっそく、ワシらはクリスマスの準備にかからねばならん! なにせ結構な数のプレゼントをばらまいてしまったでの、急いで代わりを用意せねばなるまいて!」
「では、わたくしどもはこれにておいとまいたしますわ。またご縁がありましたら、そのときはぜひ、ご一緒にお茶などいただきたいものですわね」
「うむ――あなたに、聖夜のご加護があらんことを!」
 サンタクロースたちに一礼すると、ベアトリスは空を見上げた。満天の星空に、オーロラの光が輝いていた。その光を横切る、黒い影――服部半蔵さんの乗る、大凧であった。
「……服部半蔵さま。今宵は借りをお作りしてしまいましたわね。このお返しは、いずれ必ずいたしますわ」
 そんなベアトリスのつぶやきに返事でもするように、大凧はくるりと回転すると、夜空の闇へと消えていった。後には、星と極光だけが残っていた。

【完】

 




そんな…旦那悪いっすよアタシなんかに…え、「柄にもなく遠慮するな」ですって? エヘヘ、まあ、そうなんですがネェ…んじゃ、お言葉に甘えて遠慮なくっと…ヘヘ