見出し画像

老人と犬、ところにより廃墟 #むつぎ大賞2023

35年と118日。

「ここにしようか。おいで五郎丸」
 その日、老人が指さしたのは、かつて地下鉄と呼ばれた交通機関、しかし今となっては日の光届かぬ深い地の底――地下迷宮物件ダンジョンと成り果てた場所の入り口であった。
 五郎丸は応えるように一声吠え、階段を軽やかに降りていく。数段降りたところで老人を振り返り、追い付くのを待ち構える。五郎丸は尾を左右に振りながら、進んでは待つことを繰り返す。
 対して老人は、遅いがよどみのない足取りで階段を下りていく。硬いコンクリートに打ち付けられる杖の乾いた音が、老人を包みつつある闇に響き渡る。黒い穴から吹く風が、老人と五郎丸にまとわりついてくる。
(それにしても)
 杖の音、風の音、そして一人と一匹の足音。他には何もなかった。
(結局、地上のどこにも奴の巣らしきものは無かった。私は、果たして奴にたどり着けるのだろうか。たどり着けたとして、老いさらばえたこの身に、宿願を果たせる程のものが残っているのだろうか)
 長い長い階段を、老人と五郎丸は下っていく。
 老人はふと、少年時代に読んだ『神曲』という本を思い出す。
(地獄へと続く道、か。その道が「やつ」につながっているのなら、地獄だろうが何だろうがためらいはせんのだが)
 闇の深まりに呼応するように、老人の心に暗いもやが広がっていた。
(三十年。この星に奴らが現れ、この星が奴らに蹂躙されてから、もう三十年以上が過ぎ去った―—徒労でしかない三十年が)
 そこまで考えて、老人は首を左右に振った。そして闇の中に火をともすように、彼が奪われた数々を心に思い浮かべていく。
(そうだ、うじうじ悩んどる暇なんぞなかった)
 老人は足を止めない。ゆっくりと段差を下っていく。下りながら老人は自分の胸元に手をやった。首からかけて上着の中にしまい込んでいるお守り袋を、服の上から大事そうになでる。
 やがて老人と五郎丸は地の底――かつて地下鉄の駅として機能していた空間へとたどり着いた。沈黙したままの改札を通り抜け、駅のホームへと降りていく。
「ここで追うのを止めるくらいなら、とうの昔にあきらめて腹でも切っとるわなあ」
 だから首を洗って待っとれよ。
 私と五郎丸が必ずお前を追い詰めて、その首刎ねてやるからな。
 なあ五郎丸。老人が呼びかけると、五郎丸は応えるように一声鳴いた。
 老人は年齢を感じさせない身の軽さで線路に飛び降り、それに沿って再び歩き始めた。後から飛び降りた五郎丸が老人を追い越し、先導するように歩き出す。
 同時に、そこらじゅうの闇が―—そこに潜むものたちがざわめきだす。久しぶりの獲物が、のこのこと彼らの縄張りに入り込んできたためであろう。

「五郎丸、待ちなさい」
 老人が呼びかける。老人の十数歩先を歩いていた五郎丸はぴたりと立ち止まり、老人の方に近寄ってきた。
 老人は五郎丸の頭を数度撫でると、周囲の音、そして気配に意識を集中した。
 かすかな気配がする。身を潜め、こちらの様子をうかがう気配。
 老人は、湧き上がる激情を刹那で押し殺した。
 五郎丸がかすかにうなり始めた。ほぼ盲目の老爺には、五郎丸がどちらに向かってそうしているかはわからない。だがおそらくは五郎丸も感じているのだろう。気配を消そうとする相手の、しかし隠し切れない害意―—”殺気”というものを。
 気配は身じろぎ一つしない。
 老人はすり足で移動しはじめる。右手に持っていた杖を掲げるように上げ、両手で握る。
「……斬魔の威、此処に示し給えかし」
 かすかな金属音の後に、虫の羽音のような音が杖から漏れだす。
 気配は動かない。
 老人は少しずつ気配との間合いを詰めていく。ある程度の距離まで近づくと、老人は糸のように細い息を吐いた。
「どうした、かかってこんのか? やせ衰えた爺ィとはいえ、まだまだ食えるところは残っているぞ」
 その言葉が終わるか否かという瞬間、老人の体が地面すれすれまで沈み込んだ。その上の空間を、怖気のはしる速度で質量が通り過ぎる。老人には、それが何なのか見ずともわかる。爪だ。かすめただけで老人の九割がたを肉片に変えられるそれが、しかし老人をかすめること無く空を切る。
 獲物を狙う肉食獣の如き姿勢から、老人は全身を跳ね上げる。地を蹴る勢いを捻りに変え、一気に鞘引き、抜き打った。
 廃地下鉄の闇に、蒼光そうこうが奔る。
 老人は刀を鞘に納め、一瞬残心し、即座に身を翻す。老人が次の相手に斬りかかるころ、ようやく最初の相手が―—赤銅色の地竜が、真っ二つに割れて絶命する。
 老人の頭上で咆哮が響く。次いで巨大な質量同士がぶつかり合う音。
 五郎丸が元の姿・・・に変わり、竜どもに襲い掛かっているのだ。
 激しい争いの合間を縫うように老人は駆け、刀を振るう。蒼い光が次々と閃き、その度ごとに竜たちの断末魔が響く。
 
 地竜。
 『幻想種』の中でも最上位にあたる『竜』の一種である。
 鋼鉄よりも硬く鋭い爪と牙、そして近代兵器の威力をとおさぬ堅牢な鱗。
 それらを併せ持つ、地の底に潜む狩猟者プレデター。それが地竜である。
 一体ですら人類にとっては脅威となりえる地竜がこの地下鉄の闇――地竜は元来、自然洞窟を巣として利用する生きものである――の中、十数体からなる群れを形成していたのである。
 老人と五郎丸はそんな彼らの巣に、尋常ならば死地というべき場所に足を踏み入れたのであった。
 だがしかし、その地竜の群れは、たったの一人と一体に蹂躙されていた。
 鋭利な爪は老人の刀に切り裂かれ、強靭な牙は五郎丸の爪で下顎ごと削ぎ落される。竜の血がそこかしこにぶちまけられ、むせ返るような刺激臭を放つ。その臭いが竜たちを刺激し、興奮した竜はますます老人たちに殺到していく。そこを斬る。そこを斬る。そこを斬る。斬る。斬る。斬る。光届かぬ地の底に、絶叫と異臭と混乱が満ちていく。 
 地獄。陳腐な喩えだが、それ以外に形容できぬ有様であった。
 ―—だがその阿鼻叫喚の中、老人の心は凪いでいた。
 「やれやれ。トカゲを何匹切り伏せたところで……」
 『ヤツ』には届かんというのに。そう愚痴る代わりに老人は刀を振るった。悲痛な鳴き声が響き、巨体が倒れる音がする。

 最後の竜が三枚に下ろされたとき、五分ほど続いた蹂躙の時間は終幕を迎えた。老人は蒼く光る刀身を鞘の―—杖の中に納めかけ、ぴたりとその動きを止めた。老人にそうさせたのは、かすかな違和感だった。
「ふむ」
 老人は違和感に近づいていく。一体の地竜の亡骸の前に立ち、足で雑にひっくり返す。
 細く、甲高い鳴き声がした。
 老人には見えていない。だが気配と鳴き声の印象から、自分の足元に子犬のような何か―—子どもの竜がいることを察した。
 先ほど老人が足蹴にした竜は、この子の母親であった。己の子をかばい、斬られたのであった。
 それらは無論、老人には知りえぬことである。老人にできたことは推測することだけであった。
 子竜は老人を見上げ、哀れなほどに震えながら鳴いていた。
 
「……私には、お前を助ける理由がない。なんせお前は、幼いとはいえバケモノで、ということは私の敵だ」
 たっぷり数十秒の間をおいて、老人は子竜に語りかけた。
「それにだ。もしここでお前を見逃せば、後々私にとって大きな禍根になるかもしれん」
 老人は静かに語り続ける。
「だがな、幼いバケモノよ。私はお前を見逃すことにする。なぜか。私は狂っとらんからだ。狂っとらん人間は、目の前の幼くか弱い生き物を、将来の禍根などを理由に殺めたりはせんからだ」
 子竜の震えは、いつの間にか収まっていた。丸く大きな瞳で、静かに老人を見上げていた。
「それにな。肉親を殺された者が仇を討つことを止める資格など、私には欠片もないんでな」
 そう言って老人は刀を納め、子竜に背を向けた。

 その瞬間、子竜が老人の首に牙を突き立てようと跳ね上がる。
 老人は後ろを向いたまま動かなかった。
 老人の首に牙が届かんとするそのとき。
 横から飛び出した五郎丸が、子竜を丸のみにした。
 
 老人は、後ろを向いたまま動かなかった。

 骨の噛み砕かれる音、肉が咀嚼される音が、闇の中に響く。
 老人はそれを聞きながら、腰に手を当てぐいと伸ばした。首を左右に振り、トンネルの向こう、闇の奥へと再び歩き始める。
「また助けられたな。ありがとうよ五郎丸」
 老人がそう声をかけると、五郎丸は口から何かを吐き出し、老人に答えるように一声吠えた。

※今作は、以下の企画への参加用作品です。みなさんもしよう。


そんな…旦那悪いっすよアタシなんかに…え、「柄にもなく遠慮するな」ですって? エヘヘ、まあ、そうなんですがネェ…んじゃ、お言葉に甘えて遠慮なくっと…ヘヘ