見出し画像

彼との生活と路地で泣くこと

 「ただいま」

 玄関のドアが開く音とともに、同居人の宮根の声がした。

 「おかえり、今日はどうだった?」

 「別に普通だったよ」

 私は彼の前ではこんな感じだ。まるでもうやることが終わって何もない夫婦みたいな関係。私は家事全般を担当し、彼はただそれに甘える。そして私はそのことに対して怒ることに疲れ、ただこなす。家事をあまりしない人は大抵、部屋の維持に多くのことが必要であることを知らない。知らないので私が家のことを何もしていないと思っている。少なくとも自分のゴミ出しと同じくらいのことしかしていないと考えている。仕方がない。なぜなら知らないのだから。何か不満を述べるためにはその知識の共有から必要だ。毎日掃除機をかけないと、ほこりが多くたまり、今のようにきれいな状況でないこと。お風呂の排水溝にとても髪の毛などがたまりやすく、1週間に1回は取り換えなければならないこと。トイレは定期的に掃除をしないととても見るに堪えないものになるということ。立って用を足す場合は特に。

 「そういえば私、今日お客さんいっぱい入ったよ」

 「へー、楽しかった?」

 仕事はもちろん楽しいが、そういうことを言ってほしいわけではない。だけど私が期待しすぎているのかもしれない。仕事は楽しいほうがいいのかもしれないが、仕事をする目的というのはそのようなものではない。しかし私は他の人からの言葉を求めていた。

 彼がお風呂に入っている間、私は爪を磨いていた。そうしながら以前彼に言われたことを思い出していた。


 「今日は行かねぇの」

 宮根は自分のベッドに腰を掛けながら、ふと私に聞いてきた。

 「まぁ、行かなくてもいっかな」

 まだ新人だったころ、毎週予約がなかったとしても、私は事務所で待機をしていた。そのほうがお客さんのところに早く着く場合が多いし、フリーで入れる確率も上がるからだ。しかし、今日は事前予約が入っており、その前にお客さんを取ることはできなさそうな時間だったので、いつも出る時間でも自宅でゆっくりしていた。

 「出たらいいじゃん、メイクして、ネイルして、スカート履いてさ」

 彼はベッドで爪を下を向いて切りながら、私に言った。この言葉には投げやりで、疲れと、諦めと、馬鹿にするような語気を含んでいた。

 「なんでそんな強く言うんだよ」

 私はそう言い返した。

 「いや別に普通だろ。行かないのか、ブラジャー着けて、パンティー履いてさ」

 私の顔に熱さが上る。私はここまで人を馬鹿にする言葉を知らない。

 「……なんだよ」

 それから、外に出た。私はお客さんの自宅に行くために歩いていた。オプションは射精、AF、そして痴女プレイだ。キャスト側が受けの時は用意が多く必要だ。娼婦の私はこれをよく準備する。何事にも準備は大切だ。それはデリバリーヘルスでも同じことだ。

 お客さんの自宅の最寄り駅で降り、改札を抜け、路地に出た。私は泣いた。仕方なく涙があふれた。そんなつもりはなかった。しかし悔しさが胸からあふれて止まらなくなった。この涙は悲しみか。怒りか。違う、悔しいのだ。どうにもならない時、人は怒ることも悲しむこともしない。悔しくて泣くことしかできない。

 ひとしきり泣いた後、多目的トイレでメイクを直し、僕はお客さんの自宅に向かった。

 「しおりちゃんね、いらっしゃい。上がって上がって」

 アパートのチャイムを鳴らすと、ガチャガチャと音が聞こえた後玄関から初老の男性が出てきた。

 「いくらだっけ」

 「交通費合わせて23000です」

 「……はいこれ」

 男性はあまり上等でない二つ折り財布の中から不器用にお金を取り出し、押し付けるように私に渡す。

 「ありがと」

 「じゃあ僕もうお風呂入ってるから入ってきて」

 私が同じように財布にそれらを向きを整え、入れていると男性はそう言った。

 「了解です、すぐに上がってくるから待っててね」

 愛嬌たっぷりにそう言って、彼からタオルを借り、お風呂に向かった。風呂には水垢のついてはっきりとしない鏡があり、そこには娼婦の顔をした私がいた。私は鏡に微笑みかける。いつからこのような表情ができるようになった?ありきたりな小説にあるように私は鏡に問いかける。鏡は何も答えることはなくただ私に向かって優しく微笑んでいるだけだった。

 それから私は彼に抱かれた。


 「……おーい、風呂あがったぞ、聞いてんのか?」

  •  バスタオルを肩にかけた彼は何でもないような顔をして私に問いかける。

「すまん、ぼーとしてた」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?