2018/09/04 「続いていくその日常において」

俺の前には扉があった。その扉はいつも少しだけ開いていて、そこから漏れ出る光が希望を与えてくれていた。その光は青春だったり、夢を追いかけたり、恋をして仕事を一生懸命にして。そんな当たり前の幸せだった。だけど最近その光が見えない。

 リスカってね、すごいんだよ。この世界の頂点に私がいるような気持ちになるの。私を否定したあの子たちに優越を感じることができるの。素敵でしょ?

 俺の家庭は妹によって壊された。母と3人で暮らしていた。俺は妹をとても気に入っていたし、妹もそうだったと思う。俺たちは知り合いの中で中の良い兄弟として定評があった。
 だけどある時彼女の部屋のごみ箱から赤い色をしたちり紙が見つかった。母はそれを生理だと思ったらしく、はじめのうちはそこまで慌てていなかった。しかし、それが何度かあると母は気になって聞いてみたらしい。その時妹はこう言った。
 「私、リスカしてるの。」
 「何か悩みでもあるの?」
 「何もない。」
母は強い人だったが、都合の悪いことはあまり聞かない人でもあった。
 「何もないわけないじゃない。誰にいじめられたの?」
 「だから何もないって。強いて言うなら、あなたのそういうしつこいところがすごくストレス!」
 「親に向かってあなたって何よ!」
 それからもしつこく問い詰めていったようだ。
 それは時に虐待行為に及んだ。
 それらのことは児童相談所にも伝わり、妹と俺は母方の祖母の家に引き取られることになった。


 それから半年がたった。
 祖母はまるで腫物を触るように妹に接し、できるだけかかわらないようにしていた。しかし、「そんなことしちゃだめでしょ!」とヒステリックに叫ぶ声が部屋の外から聞こえてくることもあった。
 そんな時はいつも、部屋で流していたロックをイヤホンで聞き、ボリュームを大きく上げた。
 この前学校から帰る途中、公園のブランコに座って本を読んでいる朱里を見かけた。声をかけずに家まで帰った。だけど少し気になってもう一度公園に行くと、彼女はまだそこにいた。
 「もう遅いから家に帰るぞ。」
 「いいよ、先に帰っても。」
少し頭にきた。
「朱里はさ、なんでリスカなんかしてんの?」
「おにーちゃんだってエッチな動画見てるんでしょ?それと一緒だよ。」
彼女はからかうように言った。
「いやいや、一緒じゃないだろ。俺は人に迷惑はかけない。」
「私だってかけてるつもりないよ?」
「……まぁ、いいけど。」
これ以上話すのは無駄だと思って家に帰った。

次の日も学校だった。俺は体育が好きではない。特にサッカーは苦手だ。何をすればいいのかさっぱりわからない。だからいつもディフェンダーとしてゴール前にいることにしている。そのサッカーの授業中いつもはあまり声をかけてこないゴールキーパーが話しかけてきた。
「お前の妹、母親に虐待されてたんだって?」
「されてたんかなぁ。よう知らん。」
俺はそう答えた。ほかに答えようもない。
彼は少し驚いて、そのあとひきつった笑みを浮かべた。
「よう知らんって、自分の妹と母親のことだろ。俺の友達の知り合いに児相の人がいて、お前が引っ越したって言ったら、それでだろうって言ってたぜ。」
「そっか。」それ以上何かを言う必要は感じられなかった。
だから何も言わなかったし、サッカーもしなかった。

教室で着替えているとき、猛烈な疲れを感じた。着替えるのも億劫だった。話しかけられてもその声は耳を通り過ぎる。何を言っているのかわからないから苦笑いしかできない。次は移動教室だった。俺は化学の教科書たちを持って、理科室に移動した。そのとき廊下で英語の担当の先生とすれ違った。
「こんにちは。」といつものように挨拶をしたが、
何も返ってこない。視線は向けられるが、
何も返ってこない。まるでただ無機物を見ただけのように、
何も返ってこない。
先生も全員に挨拶を返せるわけじゃないだろうし、まぁいいかと思い、理科室に行った。
吐き気がした。
もう次の授業など聞く気は起こらなかった。

そんな日が続く朝、俺は起きて悲しい気持ちになった。そこに枯れはじめて、葉の先が茶色になっている観葉植物があったからだ。先月くらいに、久しぶりに会った母が勤め先の歯医者から「いるならもらっていいよ。」と言われてもらってきたものだ。熱帯系の植物だと踏んでいる。植木鉢から伸びている直径2センチメートルほどある太い緑の茎。上に大きく開いた葉。その葉の先が丸まり枯れそうな雰囲気で、その植物は佇んでいる。
昨日までは元気に見えたのに。寒いからだろうか。
悲しい気持ちのまま学校に行く準備をしていると、朱里が部屋から出てきて、俺の前を通り過ぎた。洗面台から水の音がする。顔を洗っているのだろう。学校には行っているようだ。彼女曰く「行かないほうが面倒だから。」ということらしい。
俺は教科書を詰められるだけ詰めた鞄を肩から掛け、祖母が作ってくれた弁当を持って玄関を出た。

お昼休みになり、お弁当を食べていると近くの女子の話が聞こえてきた。
「えっ、これ自分で作ったの?」
「そだよー。」
「めっちゃすごいやん。私もこんな風にできたらなぁ。ねぇ、杏実は作れたりするの?」
「いや、あたしも全然。というか、ご飯をつくったことない。いつも親に作ってもらってる。」
「まじ?杏実、それはまずいよー。」
自分で作らなくていいなんて羨ましい…
彼女たちの話を聞いていると少し不安になった。俺はこのままでいいのかと。
そして一人でいることがとてもよくないことのようにも思えてくる。
 以前は一人でいることに何ら不安も心配も悲しみも持つことはなかった。家では一人の時間が長かったし、考えることなど山ほどあった。むしろほかの人と一緒に行動している人たちを、そんなにみんなと一緒じゃないと嫌なのか。もっと自分を持ったらどうなんだ。と、馬鹿にしてさえいたのに。
 だけど今の自分は一人でいることに不安を感じている。
 自分が心細かった。何もかも失ってしまいそうで。
 誰か助けてください。一人じゃ不安なんだろ?だから俺が一緒に食べてやるから。ねぇ……。
 こんなことを思っている自分に驚く。それを知ってもなお、俺は自分の中に巣くっている不安を拭えずにいた。
 不安に包まれた学校でも掃除の時間は気が楽だった。こんなことを言ってくるやつがいたから。しかもほとんどいつも。
 「なぁなぁ、お前って数学好きなの?」
 「あぁ。好きだよ。すごく。」
 「そっか。お前は数学が好きかもしれん。だけど数学はお前のこと嫌いだぜ。」
 「うるせぇよ。」
 この馬鹿みたいなやり取りが好きだった。
好きなことを好きでいいと認めてくれているような気がした。

「ただいま。」
家に帰ると祖母が洗濯物をたたんでいた。朱里は自分の部屋にいるのだろう。
「あなたもすこしは片付けなさいよ。」
「うん、わかってる。」
祖母はとても小言が多い。神経質なのだ。
それが彼女の良いところだと気が付いたのは、二十代になってからのことだったけれど。
荷物をいまだ見慣れない自分の部屋に置いて、顔を洗いに洗面台まで行くと、祖母の声が聞こえてきた。
「ところであなたはもう高校三年生でしょ?進路希望調査が来てたわよ。どうするつもりなの?」
そうだ、高三ともなれば今まで保留にしていた、自分の道を決めることを迫られるのだ。
「あぁ、大学に行こうと思ってる。数学がもっとしたくてさ。」
「大学に行ってどうするつもりなのよ。数学って何かの仕事に役立つの?今は大学に行っても仕事はあまりないって言うじゃない。」
言われると思っていた。ここは田舎で、周りに進学した人はほとんどいない。学歴社会ではない、大学生は分数もできない。そう言った風潮が間違って広まっていて大学に対する評価がとても低い。
「そうなんだけどさ。すごく好きだからもう少し勉強したいなと思って。」
 「それでそのあとどうするのよ。」
 「研究者になれたらいいなって。」
 「そんな夢みたいなこと言ってないで、もっと現実を見なさい。ご近所の枝木さんだって大学に行っていないけれど立派にやっておられるわ。」
 確かに俺の評価が低いのは認める。
 「いや、頑張るからさ。」
「頑張るって、どうせ三日坊主よ。私の夫もそうだったんだから。」
今は祖父のことなど何一つ関係ないじゃないかと思う。
俯いて黙っていると、祖母ははぁとため息をついた。
「もうご飯ができるから、朱里ちゃん呼んできて。」
「わかった。」
俺はそう答えた。

それから家に帰ると、祖母から進学を反対されるようになった。それはとても厳しいことだった。だから自然と自分の部屋にいるか、学校にいるか、おして外にいることが多くなった。

だけど学校では人の視線が怖くなってしまい目を合わせることができなくなっていった。そして人の近くにいるのが嫌になった。
「俺とかかわってもいいことがないから離れてください。」と。周囲にいる彼らがとてもネガティブな存在に感じられた。
だけどそれは少し違っていて、本当はネガティブな感情それ自体、彼らによって引き起こされるものだと信じていたのだけれど。

泣きっ面に蜂。とはまさにこのことだ。引っ越してから電車で高校に通っていた。とても他の人の視線が気になる。どこを向いたらいいのかわからない。
ある日の帰り道、電車の乗車口のドアの近くに立って外を向いて立ち、手すりにつかまっていた。
すると、六十代くらいのおばあちゃんが声をかけてくれた。
彼女は席が空いて座れることを知らせてくれたのだ。優しさは受け取っておこうと思い、座った。だけど、前の人の視線が妙に気になる。仕方がないので、手に持っていた単語帳に目を落とした。
自分が降りる駅で電車が停まると、教えてくれたおばあちゃんが、「ごめんね。」と言って前を通り過ぎた。
とても悲しい気分になった。
同じ駅で降りた後、お礼を言ってみたけれど返事はなかった。
家に帰っても気は晴れず、自分の不甲斐無さに対する苛立ちと、悲しみを紛らわすための怒りとでとても気が立っていた。そうして、俺は朱里を傷つけた。

「なんでやめねぇの。ねぇ。なんでだよ。お前のせいで家庭が崩壊したんだぞ。」
「お兄ちゃんにはわからないよ。」
「つらいんだろ?つらいことくらい誰でもあるよ。なぁ。そんなに人に迷惑かけて何が楽しいわけ?なぁ、俺を苦しめたいわけ?」
「そんなわけないよ……。」
彼女は俯いていた。さらに腹が立った。
俺は自分の妹が何か汚れたものであるかのように見ていた。そんな状態に耐えられなくなり、今日は料理当番だったため、鼻で嗤うようにして台所に向かう。
しかし、その怒りが収まることはなかった。サラダをつくっていても。唐揚げを揚げていても。

妹さえいなければ!
そうであれば俺はもっと幸せだった!親もいて、毎日不安もなく、勉強する時間も取れ、友達ともっと遊べ、何でもできたんだ!
そうだ、妹さえいなければ。

彼の中で怒りに似た感情が沸き立って消えなくなった。
そうだ、料理を作る必要もなかったよね。

包丁を持ったまま、足は彼女の部屋も前まで歩いていき、止まった。
「なあ、朱里。今日は俺もやってみたい。リスカ。」
彼女の部屋からの扉から薄暗い光が漏れ出て、俺は光の中に吸い込まれるように中に入っていった。そして手に持った包丁を振り上げたとき、俺の後ろで扉は音もなく閉まった。


神様。あなたがおられるのならどうか救いを与えて下さい。
妹を救ってあげて下さい。
お願いします。
助けをお与え下さい。
妹が救われさえしたなら俺はどうなったとしてもかまいませんから。
こんなことを言うと彼らは俺のことを偽善者だと罵るでしょうが。
ですが今日だけは。今だけは偽善者でいさせてください。
妹を救って下さい。
どうかお願いします。


包丁を握っている手が緩まり、薄暗い光が漏れ出ているドアに目を向ける。

いつも妹のせいにしていた。
妹が街を歩くときに見る、あの綺麗な女の人みたいだったら。いや少なくともリスカさえしていなければ。
そう思ったのは妹が何もできないただのくずだと思っていたから。
だから、もう一度やり直したい。ありのままの朱里を受け入れたい。
扉なんてもともとなかった。そもそもほかの人に扉を閉ざせるはずもなかった。扉をつくったのは俺。朱里のせいで閉ざされそうになっていると思ったのもきっとそう。
だけど、それが何だというのだろう。いまさら何を言ったとしてももう仕方がないじゃない。
俺は扉の向こうに声をかけた。
「ごめんな。朱里。俺どうかしてたわ。ごめん。俺のほうが自分勝手だった。ほんとにごめん。」
「そんなことない。朱里が朱里が朱里が。」
ドアを開けるとそこにはカッターを持って、今にも手首に突き刺しそうな勢いで持っている朱里がいた。
「やめろ朱里。」包丁を急いで床において部屋の中に駆け込む。
「ごめん。ほんとにごめん。お兄ちゃんが悪かった。お願いだから許してくれ。ごめん。ごめん。」
俺はカッターを妹の手からもぎ取った。
妹は床にぺたりと座って、自分をたたき始めた。
「朱里が悪いの、朱里が悪いの。全部朱里が悪いの!」
「違う、違う、違う。お前は悪くない。悪くないんだ。」
「違う!全部私が悪いの!」
どうしたらいい。
俺はそっと頭をなでようとした。
「触らないで!」
「ごめん。」
はらわれた手を膝の上におき、彼女の俯いている顔をそっと窺うように言う。 
「ごめん。大丈夫だから。俺が自分のことばっかり考えていたせいで。ほんとにごめん。」
「どうでもいいのよそんなこと!全部私が悪いんだから。」
吐き捨てるようにそう言う。

その後彼女はずっと息を荒げて泣いていた。
 それを見ながら何を思っただろうか。泣かないでほしい。俺が傷つけたのに。自分のことしか考えられないことが悲しい。悪かった。大丈夫、大丈夫だから。そう言ってなぐさめようとするけれど、それが自分に言い聞かせているものだと感じまた嫌になる。
そうだとしても彼女の助けに少しでもなったのだろうか。呼吸が少し落ち着いてきた。
「ほんとにごめん……。お前は悪くないから。」
彼女はまだぜぇ、ぜぇと息を荒げたままだ。顔も赤い。
「お前は悪くない。悪くないよ。」
そう言って俺は彼女の頭にそっと手を置いた。彼女は俺の服の裾をつかんで膝に顔を埋めた。
大分落ち着いてきたみたいだ。
「おいおいおい、服で鼻水をふくなよ。」
「ふふふ。」 
「いやいや、ふふふじゃなくて……。」

そのあとどのくらいの時間がたったのだろうか。彼女は顔を上げて「ティッシュ。」と言った。散々俺の服でふいたくせに。
ティッシュを渡して
「ほんとにごめんな。そんなつもりじゃなかったんだ。」と言った。
「もういいよ。」彼女はそう答えた。
なんだか釈然としなかったが、そっとしておこうと思った。

「もうすぐ飯できるけど食えるか?」
「持ってきて。」
「そっか。じゃあ、すぐできるから待ってろよ。今日もめちゃくちゃうまいと思うぞ。」

母親がいない分、俺が愛そう。俺が抱きしめよう。俺が大好きだと言おう。
そう言って、数日後家の中で彼女を抱きしめてみた。
気持ち悪い。彼女にそう言って突き飛ばされた。抱きしめるのはやめておこう。

妹のいつもの強がりのおかげだろうか。
いつも通りの日々が続いているような気がしている。
しかし、最近驚くことがあった。いつもの公園にいた朱里に声をかけると、なんと彼氏ができたというのだ。少し心配にはなったが、余計なお世話はしたくないと思った。
 「なんで俺は彼女がいないんだ。」
 「お兄ちゃんは私がいるからいいでしょ?」そんなことを言う。
 「お前さっき彼氏できたって言ったよな。……そういう問題でもないけど。」
 「大丈夫だよ。私には男二人くらい愛するのはわけないことなんだから。」
 いったいどのあたりが大丈夫なのか。どうでもよくなった俺は、嫌になるくらいに続いていきそうな空を見上げて深く息を吐いた。

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