2020/11/4 「エリアE」

 そして夜になり、朝が来て、昼になった。水が流れる。俺は綺麗なものが本当はないような気がして、エリアD溜まりに向かい、練ったパスタをエサにして鯉を狙いながら詩を読んだ。
 俺の恋人のNはとても人間的だった。だから決して詩のような綺麗さはなかったのだ。しかしそのきれいじゃない関係に惹かれていた。この前、本屋で「愛は生々しい」という写真集を見たことを思い出す。恋人のスカートの中を階段の下から撮った写真、セックス、顔。俺はその顔に見入ってしまっていた。ツヤのある顔、汗で張り付いた前髪、こちらを見つめる光る瞳。それがとても好みだった。
 溜まりの上の木々が揺れる。夏らしい緑の葉を付け、葉と葉をこすり合わせ、春のジーと鳴く虫の代わりに音を発する。たまに下に葉を落とし、その葉がゆっくりと3次曲線を描きながら流れていく。そして渦に飲まれて流れの中に消えていった。
今、Nは何をしているのか。ギターの練習をしているか、友達とご飯を食べているか、それとも家で寝ているだろうか。
 先ほどまで目の前を泳いでいた鯉たちはどこかに行ってしまっていた。これではあたりもないはずだった。俺は糸を巻き取り、残ったパスタを今度来る鯉のために投げてやった。
 パスタが大きな波紋を作り溜まりに落ちる。パスタは塊のまま川底に沈んだ。
 今日は詩を読むのが半分、パスタで釣れるかを調べるのが半分。釣れなくても問題ない。本を開いてまた読み始めた。対岸の堤防では50代くらいの男が歩き回っている。時々立ち止まり、こちらを向く。もうすでに俺たちは半時間ほどこのような関係を続けている。俺は彼になにかを釣るところを見せられなくて残念。男はとにかく歩き回ったり、立ち止まったりしている。俺は本に目を落としながら独り言をこぼす。
 (だから俺はこんな風に思うんだ。つまりこの詩を詠んだ彼の恋人はだいぶ女性らしいということだ。別に俺の彼女がそうではないということが言いたいんじゃない。彼女はある意味ではとても女の子らしいんだ。だけど、ある種のずる賢さとか、おしとやかだとか、かわい子ぶるだとか、そして恋焦がれさせようとするだとか、そういう類のものではないということなんだ。それが何やらどこか別の国で起こったことのように感じるっていうことなんだ。それってすごく凡庸なことだ)
 そこで俺は「(特別に見えた彼が)恋をしているのを見ると凡庸な人のようだった」と三島由紀夫が書いていたのを思い出した。
 そういうのはそれぞれ主観的に見た女の子に対する男性の気持ちが凡庸なものに見えるということだ。つまり、男性から見た女の子がどのようなものであるか、それとそれに対する感情、それらを誰かから聞いていたり、本で読んだりして知っているということだ。それで恋をしているのを見るとたいていの場合、凡庸なものに見えるということだ。などと思った。
 そして本から目を上げると、いつもの溜まりの上流に綺麗なトラウトがあるのを見つけた。まだ青く、背の高いすすきが繁茂しており、風に煽られている。これは入るのに間違いなく苦労するだろう。それに虫も多そうだ。俺はそのトラウトの写真を撮り、エリアEと名前を付けた。
また詩に目を落とした。俺の目を文字で書かれた音が流れていく。その時々に魚が横切る。それはウグイ、鯰、そしてギンブナ。鯉は流れと同じように気づかぬ間に通り過ぎる。流れはたまに出っ張った岩に当たり、波を立てて弾け、縦の文様を作る。そこに魚がいることもあるし、いないこともある。そしてまた心地よく滑らかな曲線を描きながら流れていく。流れは壁に当たることなく渦を巻き、そこからポコポコと泡の音が出てくる。そして流れが絡み合う音が出てくる。それでもなお下流の方に迷いなく進んでいく。
 30分ほどたったころ、本を閉じて帰ろうとすると、目の前に中ほどの鯉が俺のことを馬鹿にするように優雅なけだるさで泳いでいた。川辺まで下りていきその鯉を眺めた。満足した俺は川辺から登り、荷物を背負った。一時歩くのを止め、堤防に寄りかかっていた対岸の男はまた、歩き始めた。
 あの落としたパスタは塊のまま、まだ底に沈んでいた。

 そして夜になり、朝になった。次の日は朝からバイトだった。コロナウイルスの影響下で俺がしたことといえば、バイト、就活、友達と会えない彼女を慰めること。就活で忙しくしているときには釣りに凝って、コロナ自粛の際、よく川に行った。。

 エリアB-1 白川 ウグイ、オイカワ
 エリアB-2 白川 ニゴイ、鯰 AM3:00
 エリアD 白川 溜まり ウグイ、オイカワ、ギンブナ、鯉
 エリアE 白川 トラウト
 エリアZ 龍田山 ドバミミズ
 エリア0 竿の修理

 最も楽しかったのは竿の修理だ。折れた竿の接続、ガイドの交換。結局一番値段の高い竿は25㎝ほど短くなってしまった。釣りには技術と知識が必要だった。川にいる魚の種類、食性、活性が高い時間。鯉の場合はその場所を通過する時間。アタックする魚に対する仕掛け、ルアーの色と動かし方。リールの値段と使えるものの関係。リールに巻く糸の種類と強さ。糸とハリス、糸と糸、糸とサルカンとの結び方。竿の細さと投げれる重さ。そして魚に対する仕掛けとそれに合う竿とリール。釣った魚のさばき方と美味しい魚。
 彼女からLINEが来ていた。彼女の友達の家に迎えに行き、カラオケに行こうとのことだった。鬱屈した気分のまま行くと返事した。3週間前から続くこの症状は主に熱によるものだろうと考えている。
 
 俺は就職活動で動き回った後、高熱を出して病院にかかった。俺は何もする元気がなかったから、彼女がコロナ相談センターに電話を掛けてくれた。
 「ちょっと待っててくださいね」
 彼らは受け入れてくれる病院を熱心に探してくれたのだが、あまりにも苦しく、とてもいらいらしていた。後から考えるといつも申し訳ない気持ちになる。
 20分ほどで受け入れ先が見つかり、公共交通機関はダメだったので、タクシーで行くことになった。
 「はい、〇〇タクシーですが」
 「あの、友人が熱を出して送ってもらいたいんですが……はい、はい……受け入れ先はあるんですけれども、はい、そうなんですね、はい、分かりました。すみません」
 様々なところに電話したが、中々送ってくれるタクシーはいなかった。俺が何も言わずに乗せてもらえばいいと言うと、彼女はちゃんと説明するようにと言われたと言って泣いた。
 俺は彼女に連れられてアパートの外に出、道に立ってタクシーを待った。すると一台のタクシーが目の前で停まり、ドアを開けた。
 彼女は運転手に一生懸命事情を説明した。すると、彼は焦って、落ち着けるような表情をした。そしてコロナより風邪の症状に近いんでしょと言い、乗せていってくれた。たぶん彼はそうじゃなくても送ってくれたに違いない。その車の中で二人して泣いてしまった。
 何時間も待合室で待ち、点滴を打ち、多くの検査をしてもらった。特にコロナウイルスの抗原検査は陰性だった。主なウイルスがすべて陰性だったから、風邪だと診断され、解熱剤をもらった。傷から入った細菌が原因だろうということだった。解熱剤のおかげで、一日で熱は引いた。もう病院には行きたくなかった。それから皮膚科に行った。
 そのあと1週間ほどたち、母さんたちがやってきて、病院までお礼と、その時してなかった支払いをしに行った。ご飯に誘ったら彼女来るかな。と母さんは言ったが、俺は来ないと思う。いつもは来るんだけどね、いまケンカ中だから。と言った。
 そして母の新しい夫に
 「もう、あんまり会いたくないんですよね、正直もう女の子はいいや」
 「そんなこと言って、絶対会いたくなって、会いに行くって」
 と彼は言った。
 その日、母さんたちが帰った後、すぐに恋人に会いに行った。
 それからも夜になると熱を出し、朝には下がるということを繰り返していた。

 彼女との約束のため、彼女の友達の家に行った。発熱の残骸がけだるさをもって体と精神を侵していた。彼女に会いに行くため、ひげをそり、お風呂に入り、気に入った服を着て、香水をつけていこうとした。だけど、結局だるくなってしまい、香水だけつけた。
 「ようくん久しぶり」
 恋人の友達、さっちゃんとその後輩Bくんは週に1度タイ語の勉強をしている。
 「久しぶり」
 「ちょっと痩せたんじゃない」
 「そう、かも。残念ながら」
 Nはいつも彼女の友達と俺が話すところをにやにやしながら見ている。
 「あ、この本俺も持ってるよ、もう読まないからいる?」
 と、俺は言った。
 「変な人、ほんと面白いよね」
 そう他の人が言う。
 頭皮が後ろに下がり、緊張したような形になり、俺はあまり笑えなくなる。腹のちょうど胃の下辺りが冷たくなっている。
 彼女はその様子をにやにやしながら見ている。
 「それがね、俺も一年生の時先輩からもらったんだけど、もう読まないからさ」
 さっちゃんの顔を見て、肩が上がり、呼吸が浅くなる。そうなんだ、と彼女は言う。彼らの顔を見て動悸を感じる。顔の筋肉の存在を忘れたみたいだ。
 さっちゃんは
 「彼氏も喜ぶかも」
 と言った。
 俺は何かをしないといけないような気持ちになり、今日タイ語があった机を見る。茶色い大きなテーブル。積み重なった本。古いパソコン。CDの山。絞死刑。
 「俺はこの絞死刑の方が気になるけどね」
 絞死刑を手に取り、手でパタパタと扇ぐ。絞死刑が目を焼き、網膜の奥まで届く。そして肩を緊張させ頭痛が始まる。
 「あ、それは友達が置いて言ったやつだよ」
 頭痛は頭の上に取り置かれたままになっている。
 「なんか、この監督さん見たことある、なんだったっけ」
 「うーん、知らないなぁ」
 手に刺激が走り、脳に電気信号を送る。
 「私の気のせいだったかな、まぁ、いいんだけど」
 自分の首が固まり、ただB君や、さっちゃんや彼女。絞死刑を見ることしかできない。頭を固定され、目隠しをされて椅子に座らされているかのようだ。俺は指先に付けられた機械から電気を送られる。急に誰かがスイッチを押し、全身に痛みが走る。それから窒息させられ、顔が赤くなる。それから自白剤を飲まされる。
 「なんか、見たことはあるけどね」
 「いや、いいんだよ、そんな気がしただけだから、今度一緒にお家で見ようね」
 「いいね、そうしよう」
 飲んだ薬で吐き気を催し、わけもなく頭がぼうとする。俺が
 「そういえば、さっちゃんのそのクジラの服いいね」
 と言うと
 「あ、これ。叔母さんからもらったやつだよ。私の叔母さんすごく面白い人なの」
 とさっちゃんは答えた。
 「そうなん、叔母さんクジラ好きなの?」
 「そうそう、めっちゃクジラの服持ってるよ、そうだ、Nちゃん、私の叔母誰とでも仲良くなれるんだぁ、今度会いに行こうよ」
 「私一人で?」
 「私も行くよ」
 「私一人だとさすがにと思って」
 Nは笑う。
 「さすがに一緒に行くよ」
 「クジラのお土産持っていくと喜ぶんじゃない?」
 そうNは言った。
 「いいね、俺クジラ肉持っていくよ」
 「クジラ肉はどうかな。喜ぶかわからないけど、いいんじゃない」
 体に薬が回ってきている。そして俺は考えることを止め、ただ上を見つめる。
 「じゃあさ、クジラ肉のレジン漬けを持っていくよ。ほらこの前言ってた、透明のガラスみたいなやつ。いやしないけどさ。そういえば、俺クジラ肉あんまり好きじゃないんだよね。なんで好きじゃないかって?いや、それがね、クジラって唯一血抜きがされてない動物じゃん。給食とかに出てくる食べ物の中でさ。大きすぎてできないんだって。……そうそう、まぁ、そんな感じかな。へ―最近は血の味あんまりしないんだ。それは知らなかった」
 ぼうとした頭に、スイッチで流された電気信号が伝わり自分の何かを守ろうとする。それから口に神経を通り、音を言わされる。俺は単なる電気信号のマリオネットになり下がる。造られた人形。アンドロイド。誰かの思惑があり、それに沿ったアルゴリズム。そのアルゴリズムに忠実なプログラム。それを表す歪なハードウェア。
 俺とNはカラオケではなく、ご飯を食べに行く。ひっそりとしたお店。強い酒。自家製ベーコン。空のタバコ。
 「ようくん最近なんか変じゃない?」
 Nは俺の顔を伺いながら言う。
 「そうかな、俺としてはいつも通りなんだけど」
 「ううん、なんか違う」
 そういって彼女はうつむいて何かを考えているようだった。
 「強い酒を久しぶりに飲んだせいだよ」
 うーんと彼女は言って
 「最近、……熱のせいかな」
 「あー、たぶんそうだよ、しんどいんだよね」
 と俺は適当に答えておいた。
 
そして夜になり、朝になった。けだるさを残したまま起き、二度寝をし、昼まで眠り、街に行った。体中をのぼせ上がらせる暑さだった。上通り駐輪場に自転車を停め、駐車券をもらった。赤組の前を通り、アーケードに出る。最近できたと彼女から教えてもらった、カステラ店。好きな古着屋。蜂楽饅頭。
古着屋に入り、階下に降りる。スマホで最近人気のファッションをチェックする。寝巻きのような服がおすすめされていた。頭が熱に溶かされ、ゴムのように滴り落ちていく。携帯をかばんにしまい、寝巻きを探す。えがらっぽいシャツ、リネン、チェックのパンツ。えがらっぽいシャツを右にしたり、左にしたりする。右、右、右、左、止める。積み重ねてあるシャツを見る。上、上、上、落とす。ハンガーまで手が届かない位置に、寝巻きのようなシャツがあった。それを手に取る。そして適当にシャツと、チェックのパンツを持って、店員に声をかける。試着室に入り、シャツからきる。大きい、大きい、大きい、微妙。シャツを店員に渡し元の位置に戻してもらう。寝巻きのようなシャツを着る。少し丈が長い、肩幅はちょうどいい。一つ小さいサイズを持ってきて着る。小さい。パンツを履く。かわいい。パンツにもともと着ていたシャツを中に入れ、寝巻きのシャツを上から羽織る。かわいい、丈が長い。
店員に声をかける。
 「大きいほうと、小さいほうどっちがいいですかね」
 「大きいほうですかね」
 「少し丈長くないですか?」
 「大きめに着る人もいますし、そこまで気にならないですけどね」
 「ふーん、ありがとうございます。ちょっと考えてみます」
 試着室の中でもう一度着た後、元の服に着替える。持っていた何枚かのシャツを元の位置にぐちゃっと戻す。丈の長いシャツとチェックのパンツを持って階段を上る。ありがとうございましたぁ。と言った店員に頭を軽く下げる。
 久しぶりにたばこをすって酔ったときのようにふらつく。通りには多くの足が歩いている。筋肉質な足、ゆるい足、むき出しの足、ゆったりしたパンツ。
 俺はそれらをじっと見つめていた。その隣を気にしない目で通り過ぎる足。不審そうに通り過ぎる足。気づいていないか、もしくはそのような振る舞いをする足。しかし見るほか無かったのだ。うつむいていないと気分が悪いし、何かで気を紛らわす必要があった。
 横を通り過ぎるマスクに隠された顔。美人に見える目。マスクにかかる茶色い長い髪。
 それから俺はたまにいく古本屋に入った。その古本屋は街で一番古くて、日本の資料を見るのに最適だった。それから詩集を探した。彼女からすすめられて書くことにした絵本の最初に使いたいのだ。初めての家出をするうさぎの話。
 あぁ、頭が痛い。
 うさぎは綺麗な星を見つけて、その星を探しに朝、誰もが眠っているときに家を出る。そしていつも母と買い物に来ていた商店街で迷子になるんだ。それからいろんな動物と出会う。たとえば毎日の食事の確保に追われイラついているねずみ。飼われ、家を愛している犬。うさぎに穏やかに話してくれる年を取った猫。家に帰っても母親は話を聞いてくれない。だけどずっと心配していてくれ、ご飯を多めにくれる。
 俺は旅のことやそんなことが書かれてある詩集をいくらか見つけ手に取った。これは、違う。これはあんまり好きじゃない。これは、もっと別のものが見たい。
 これは、あぁ、寒灯。わけもなく目がかすむ。とてもよくない。何かを見るのだって億劫だ。本当は、いや、そういうことが言いたいわけじゃないんだ。

旅悠
愉しい期待にみちたよろこびといっしょに軽い不安がある
新しいものに惹かれている憧れとともにあわただしい寂寥がある
私は憂鬱な脱出者
私は悲しい帰郷者

 これならうさぎにぴったりだ。うさぎはどこかに行かなければならないのだし、そこには不安が常に付きまとっている。今までと違う環境っていうのがそうだ。それに生きるための不安。自分の人生に関する心配だってそうだ。自分と違う考えを持つ動物と出会って、心配になったりする。それに兄弟からの嫌がらせや嫉妬、母さんから愛、そんなものが離れていたって思いだされるのだ。うさぎの冒険は誰にも聞かれない。誰も聞いてくれないし、無関心なんだ。母は忙しいのだし、彼女なりに愛してくれる。だからうさぎには何も言うことがないんだ。うさぎは何も言う必要はないし、それがうさぎにとって自尊心を満足させることになる。寂しさと引き換えに自負心を得る。そのような自負心はうさぎにこれからも引っ付いて回るだろうし、それによってうさぎは苦しみもする。だけど、どうやって寂しさを捨てることが出来ただろうか。どちらにしたって満たされないのだから、自負心を手放し、寂しさから逃れて愛を得ようとすることがうさぎにはできたか。
 俺はその詩をメモして店を出た。俺にはお金がないのだ。
 歩いてオークス通りとの間にあるカフェに行った。X君は入ってきて何を書いているのと言う。
 「うさぎの話」
 「ふーん」
 カフェというのは初めて入るときは、何らかの緊張があるが、ここは入ってしまえばとてもゆったりした空間だった。それに気が散らない。誰かを気にする必要もないし、皆誰かと話している。もしくは何かをしている。誰もがゆっくりしており、自分も落ち着いた気持ちになる。メニューを見て、アイスカフェラテを頼んだ。アイスだとラテアートをしてもらえない。だけど暑いから仕方ない。一ページを書き終わったところで、X君を見る。
 「そろそろ出るか」
 「もう少しゆっくりしよう、まだ外に出たくない」
 うなずいて、また携帯のロックを解除した。
 隣では女性二人が彼氏や旦那のことを話している。はっきりとした女性らしい声。
 トイレから戻ってきたX君は行こうと言う。俺はかごに入れていたバックをとり、支払いをした。外に出ようとすると、さっきの女性の一人がこちらの方に来ていて目が合った。 俺は彼女に微笑んでドアを出た。後ろから声がする。
 「ゆみ、何してるの?」
 「お会計しようと思って」
 「もうしたよ」
 「え、ありがとうございます」
 俺はX君とまた街に向かった。
 結局のところ俺を満たすものというのは

 女の子に笑いかけること
 何か、人と違うことをすること
 水を飲むこと
 誰かと酒で酔うこと
 JPS

 街からの帰り、家の近くで、白人の女の子がたばこを吸っていた。俺は自分のを取り出した。
“Do you have fire?”
“Lighter?”
“Yes.”
 差し出された彼女のライターでJPSに火をつけた。” Thank you” と言って彼女にライターを返し、手を振り、彼女と別れた。
 「とてもじゃないが熊大生の英語力とは思えないな」
 「ほっといてくれ、英語は苦手なんだ。これ以上上達しない」
 「あの子と付き合ってみれば?」
 「そうできればすげぇ嬉しいよ」
 次の日からNは実家に帰省をした。その彼女から今日連絡があった。Nは今日帰ってくる。俺は彼女の部屋を綺麗にして自分の家に行った。午後はタイ語があるから、夜帰ってくるとのことだった。何もする気が起きない。外にたばこを吸いに行き、ゲームをしながら今日することを考える。何もない。大体の用事は終わっているし、学校の課題もした。今日は何をすればいいんだろう。頭がボーとする。鯰でも釣りに行こうか。それからスマホで漫画を読み時間をつぶした。お昼から自分の家で何もせず、ただスマホを触っているとNから連絡があった。電話をかけるともう帰ってきているみたいだ。俺はNの家につくとたばこを吸い、合い鍵で中に入った。
 「元気だった?」
 「少ししか、帰ってないじゃない」
 「まあね」
 「今日疲れた?」
 「うん、課題もあるし、面倒」
 それから彼女が持って帰ってきたカレーを一緒に食べた。
 「課題明日まででいいから、今から何しようかな」
 「釣りに行く?」
 「行かない」
 「だよね、コンビニ行く?」
 「外行きたくない」
 「なんだよ、じゃあゆっくりしよ」
 
 そしてまた夜が来て、朝になった。最近体の中になにかがたまっているのを感じる。俺はそれが何かわからなかったし、どうすればいいのかもわからなかった。X君から連絡があり、道具を持ってトラウトに釣りに出掛けた。トラウトに入るにはまず、けもの道を作る必要があった。
 通り道の草を足で踏み倒していく。こういう時に大切なのは長袖、長ズボンだ。そうでないとまず虫に刺される。そして皮膚にかすり傷が出来る。虫よけスプレーも必要だ。とにかく虫に刺されるのはよくない。発熱することもあるし、そもそも刺されるだけでかなりやる気がそがれる。草の根元から倒していく。すると足が当たっているところは前か後ろに、そのほかは右か左に倒れる。踏む、前後ろ右左。踏む、前右左後ろ。踏む、前右左後ろ。全然終わらないことに嫌気がさし、とにかく歩く。前、前前前。後ろ後ろ後ろ後ろ。時々力強く踏む。前前前踏む。前後ろ後ろ踏む。けもの道はただ通るだけでもできるが、通りやすくするには幅を作る必要がある。そうなるとかなり時間がかかる。30センチ前後の道がトラウトまで通ると、俺はインテリア用エタノールを取り出し、踏みつけられた草に掛けていった。緑色から透明なしずくが垂れる。こんなことする必要なんてない。マッチの箱を取り出し、マッチをすり、棒の先のリンに発火した火をエタノールの中に投げる。エタノールに引火した青い炎が一気に先まで伝わる。
 (どうしてそんなに攻撃的なんだ)
 と俺の中の俺は言う。
 (マスクに関してもそうだし、彼女に関してもそうだ。君はもう少し自分に楽しませるということが足りないんじゃないか?もう少し自由になってもいいんじゃないか?それか鉄分が足りていないんじゃないのか?)
 と言う。
 (余計なお世話だ)
 伝わった炎はほとんど何も燃やさず、ただアルコールを食い尽くしただけで終わり始める。さらに上から掛ける。燃える。消える。さらに掛ける。消える。さらに掛ける。掛け続けた場所だけ乾燥し、大きく燃え上がる。
X君は立ち上る火を見る。
そしてじっと立ち、これは予言だと言った。
 「行って、今聞いたことを言いなさい。目が悪い人はメガネが必要なくなり、走るのが遅くて馬鹿にされていた人たちは牡鹿のように早く走り、ひどく顔に吹き出物がある者は何もない清潔な肌になるだろう。熱を出すことはなくなり、マスクをつける必要もなくなる。自分に関する悪口はもう聞こえなくなり、貧しい人はその貧しさを楽しみ、頭痛に苦しめられているものは解放され、誰かと口をきけない者は自由に話せるようになるだろう。緊張から吃御やどもりがある者ははっきり話すようになり、誰も発表の練習に多くの時間を割く者はいなくなる」
 そしてX君はさらにこう言う。
 「小さい女は男を怖がらず、一日中本を読んでいるような人と飲みにばかり行っている人がみな一緒にいて子どもと共に遊び、金持ちの子どもが貧しい子どもと一緒に寝る。かわいらしい少女と一緒に遊んでも警察に差し出されず、先輩や上司から理不尽に怒られたりしない。皆が自分の好きなことをし、それでもなお誰かとつながりを持っている。寂しいだなんて感じることはないし、それで誰かを求めることもない。どこにいても、傷つけることも、また傷つけられることもない。けど君はそれを本当に望んでいるのか」
 それに答えて俺は言う。
 「おかしいんだ。死にたいと思うほどに生きたいと願っていることを知ってしまうんだ。きつかったり、何かに腹を立てたり、セックスがしたかったり、すべてを捨てたかったり、そんなことをして自分は生きたいと願ってるんだ。それがすごく悲しくなるんだ。俺は生きたいと思ってるし、それに若いんだ。若さってのは辛いものだ。それが例えば彼女だけを見て、バイトや勉強を一生懸命頑張って、それで彼女と落ち着いて過ごせたらいいと思うのに、実際はもっと楽しいことをしたいと貪欲に考えてしまうんだ。それはあなたといても楽しくないと言った女の子のせい?それとも友達?分からないよ。だけどこんなことを考えてしまうのも若いからなんだろうか」
 「僕にも分からないよ。けど僕は君ともっと遊びたいと少なくとも思ってるよ」
 「今度は海にでも行こうか」
 前を向いたまま、俺はそう言った。 X君はこちらを向いて、笑って言う。
 「それか、女の子のいる店に飲みに行く、か」
 俺はそれに消えていく炎を見ながら答えた。
 「あぁ、それもいいな」

 燃えるような夏は気が付かないうちに終わり、いつの間にか冷たい風が吹くようになった。相変わらず俺は彼女との関係を続けていたし、まだ誰もがウイルスの恐怖におびえていた。気温が低くなり、鯰は釣れなくなり、もう卒業が近くなっていた。将来やお金についての不安は消えず、その不安を打ち消すようにただいつも通りの日々を過ごした。
 彼女は友達と飲みに行ったり、旅行に行ったり楽しく過ごしているようだ。かつてのように毎日会ってはいないが、それでもある程度仲良く過ごしていた。誕生日には寒い歌を作って披露した。彼女は恥ずかしがりながら、ありがとうと言ってくれた。不思議と暖まる気がした。
 ふいにX君と話したくなり、彼とご飯を食べに行った。
 「だからこういうことなんだと思うんだよね。つまり俺の方が依存していたということさ。それに彼女を重く感じたことは、一度離れて忙しくすると、彼女が好きだともう一度確認できるということさ」
 「それってだいぶ自分勝手なことだね。つまり自分が嫌だと思ったから離れてそれでいいなと思ったから彼女が好きだってわけだろ?」
 「確かにそうだけど、それで彼女を大切にできるならそれでいいと思わないか?」
 「ちょっと変わったね」
 「こうなるしかなかったんだよ、それに僕はこれが嫌だってわけじゃない」
 「君と彼女がいいならそれでいいのさ」
 「そうかな」
 「そうさ、他に誰が何と言おうとね」

 そして朝になり、夜になった。次の日の夜からバイトだったので、その準備で、夜更かしをするため、釣りに行った。夜はいつもと違う様相を見せる。例えば鯰が釣れる。そして夜の店が開く。サラリーマンは酔って気分がいいし、街中で寝ている学生もいる。そしてルアーが見えない。今日はあたりが一つもなく完全な坊主だった。それ以上どうしようもなかった。
 ロッドを地面に置き、堤防の端にあおむけになった。高い空には多くの星が輝いていた。このような空を見ていると何か神聖なものに自分が包まれ、対抗しているように思える。
 空、それというのはまさしく外の世界だ。届きはしない外の世界。そこではだれもが宇宙や星、そして間の空白のことについて考える。時間の概念はゆがみ、誰も焦ったりしない。彼らは時間が変則的なものであることを知っているからだ。彼らは回ってくる星の周期について考える。彼らにとって時間というのはそういうものだ。宇宙は彼らにとって見慣れたものだし、地面などをずっと見つめることもない。それは彼らにとってペガやアルタイルのような恒星だ。それらが彼らを温かく包んでいる。我々にとっての母のように。
 母というのは神聖なものだ。母からの愛というものはほかのどんなものとも違う。例えば父や友人にその愛を見出すことはない。母の像がたびたび偶像化されるのはそのためだ。他のどんなものとも違う無償の愛だ。いくら遠くに行き、いくら悪いことをしても最後に残っているものだ。これがあるからこそ我々は自由に旅立ち、別の場所に行くことが出来るのだ。赤子を見つめる暖かなまなざし。彼女らは赤子が泣くとすぐに駆けつけ、抱き上げるか、おしめをかえるなどし、あらゆる問題を解決してくれる。赤子にとっては母こそが世界であり、外界と接する唯一の手段なのだ。彼女らの無償の優しさにより、子どもは安心して笑い、どんな者にも平等に接することが出来る。
 そして赤子というのは変わることなく神聖なものだ。何もできずともその神聖さというのは誰の目にも明らかに見える。彼らは無造作に手を伸ばし、足をだらけさせ、自分こそがこの世の神なのだとでも言いたげである。その無垢なまなざしの前にはほかの何者もあらわにされ、どんなものであれ隠れることはできない。彼らはその無垢なまなざしで何を見ているのか。その視線はたびたび我々を困惑させる。しかし、その目は我々を攻撃しようなどという考えはない。ただ見つめているのだ。だから我々はその視線の前で言い訳をすることはできなくて、ただ壁を取り払うことになる。

 寂しさ

 それは俺にどんな影響を与えるのか。それはコロナウイルスのせいなのか。それともこの変化し続ける情勢や、学習法、その他新しいつながりに馴染む方法が分かっていないからなのか。ともかくして、俺は寂しかったのだし、それは風邪に似ている。風邪のように発熱し、体を強張らせる。それから思考だ。寂しさは思考を停止させる。何も考えられないようになる。それから解放されたらどんなに楽しいだろうか。一人で空を見上げ、風の吹く方向や木々の音、魚が跳ねる音や虫のなく声。そんなもので満たされるとどんなにいいだろうか。言葉とコミュニケーションを持ったおかげで、我々は言葉が通じる相手を同じ人間だと思う。そうじゃなければ違う人種や生物だ。そしてそのために満足する。通じ合うためにセックスをし、飲み明かす。これらがいかに楽しいことか。それとは別に一人で動物や草木と戯れること、これがどんなに心を満たすか。これらのものは確かに言葉を発しない。しかし、動物たちには赤子に似た何かがある。彼らに時間の概念は存在しないんじゃないかと思うことが多々ある。彼らはご飯や性欲の時以外焦ったりしないし、そのほかは木陰の下でゆっくりと休んでいる。特に肉食獣がそうだ。彼らは上位捕食者としてゆっくりと過ごしている。ただ、縄張りを侵された時を除いて。そんな彼らと戯れることがどんなに楽しいことか。我々は見るということを幼子の時から失ってしまった。それから再獲得するのにどれほどの時間と体力が必要なのだろうか。そして純粋に接すること。これらを再獲得するのにどれだけ必要だろうか。そしてそれは捨ててきたものだ。もう必要ないのかもしれない。しかし、たまに旅行に行ったときなどに見る景色や風のすばらしさ。そういうものを感じ取れるのがどれほど素晴らしいことなのだろう。分からないが俺はそういうものを求めたいと願っているし、だけど人間的に生きたいと願っている。そういった矛盾を抱えながら俺は寂しさを求めている。

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