愛する人へのノクターン

 リリリリリリリン!
 けたたましく目覚ましがなる。針は朝6時を指している。
 俺はうるさいと思いながらそれを叩く。せっかく起きられるように爆音の目覚まし時計を買ったというのに。時計にとってはとても理不尽なことだ。
 俺は嫌々起き、顔を洗い歯を磨く。そしてスーツに着替えネクタイを締める。通勤バックを持ち熱帯魚に餌をやる時間はなくすぐ家を出る。いつものことだ。
 駅につくとちょうど電車が到着したところだった。こんなに朝早いというのに電車の中はすでに満員だった。すみませんと会釈しながら乗り込む。そしてあとから急いで入ってきた人に押しつぶされる。
 やっとのことで会社につくとすぐに始業時間だ。パソコンを開き今日の業務を確認する。

 いつの間にか外は暗くなっていた。俺は帰宅する準備をする。
 もう人の少なくなった電車に乗るとこの生活について否が応でも考えさせられる。
 俺はいつからこの生活を続けているのだろう。仕事をして、帰って、寝る。そして起きればまた仕事に行き、目が覚める頃には満員電車の中だ。毎日がその繰り返しだ。この前いつ遊んだのかすら忘れてしまった。別に会社が嫌いなわけじゃない。職場環境は悪くないし、上司だって良くしてくれる。お金に困っているわけでもない。だがいつも同じだ。ただ同じ生活を繰り返している。特に焦りもなく、ただ毎日同じことの繰り返し。なんのためにこの生活を続けているのだろう。
 俺はテレビをつけくだらない、バラエティー番組を見る。
 コンビニで買った弁当を食べ終わると、テレビにも飽き、スマホの通知を確認する。   会社からの連絡には「明日も出勤してください」と書いてあった。
 ソファーの上に投げ、その上に寝転ぶ。はぁとため息が出る。
 会社からの連絡を無視し、ふと思い出し写真を見る。もう長らく会っていない彼女の写真を見る。1年前、週末電撃で彼女が来て奥多摩に言ったときの写真だった。何か多くのことを忘れてしまっていたことに気がつく。あれから1年しか経っていないが多くのものを失った気がする。
 フラフラとベッドに向かい倒れ込むようにして横になる。目を閉じるとあの日のことが今でも鮮明に思い出せる気がした。あれほど忘れていたのに。
 俺はそのまま眠りに落ちた。


 「ねぇ優くん。優くんってば」
 女の声に起こされ俺は目を開けた。
 「ん?どうした玲美」
 眠たい目をこすり彼女を見る。
 「もう朝だよ。今日奥多摩行くんでしょ?起きて!」
 俺は布団を剥がされ無理やり起こされる。
 「わかったよ。玲美おはよう」
 「うん、おはよう」
 彼女は笑顔で返事をしてくれた。
 「ほら起きて。準備していくよ」
 俺ははいはいと言いながらベッドから出た。
 寝ぼけたまま歯を磨き、着替える。すると下の階から彼女が呼ぶ声がした。
 「優くん、日焼け止めなくなちゃった。貸してー」
 いいよと返事する。寝間着にしていたジャージをソファーに放り投げ準備していると彼女が上がってきた。
 「ありがと」
 「じゃあ行こっか」
 俺達は荷物を背負い下に降りた。
 「あ、待って」
 彼女が玄関で引き返し、熱帯魚に餌をあげる。
 「行ってきます」
 俺達は手を繋いで駅に向かった。電車の中は割と人が少なく、座ることができた。
 「久しぶりの旅行楽しみだなぁ」
 「3ヶ月ぶりくらいかぁ、俺が帰った時以来だよね」
 「あのときも楽しかった。温泉も気持ちよかったし」
 「めっちゃ良かったね。明日は温泉入りに行こうね」
 「うん!楽しみだなぁ」
 電車に揺られてゆく。駅で多くの人が乗り込んできた。
 俺はあまりの人の多さと近さに苦しくなり、携帯を触って漫画を読み始めた。だいぶ緊張してしまい、玲美と話すこともできない。
 「優くん、私降りる」
 「え、なんで」
 その時彼女の機嫌が悪くなっていることに気がついた。
 「まだ羽村駅についてないし、ちょっと待ってよ」
 「いい、降りる」
 そう行って彼女は次の駅で降りた。それを追いかけるように早足でついていった。一体どうしたというのだろう。
 「ちょっと待ってよ」
 俺は彼女を駅の構内で追いかけた。彼女はこちらを振り向くことなくずんずんと進んでゆく。駅を出、外に出たところで彼女は止まった。
 「ちょっとどうしたの。疲れた?ちょっと座ろう」
 俺は彼女の手を引いて花壇の石垣の上に座らせ、隣に腰を下ろした。
 「それでどうしたの?」
 彼女はおずおずとバックの中に手を入れ、カードケースのようなものを取り出した。その中から何枚かを引き抜き俺に渡す。
 「悲しいです」「そっとしておいて欲しいです」「すこし落ち着きたいです」
 彼女は下を向いたまま何かを考えているようだった。
 そっか。俺は前を向く。底には外で野菜が売られていた。キャベツ。にんじん。何かの葉っぱ。彼女はだんだん落ち着いてきたようだった。俺はいい?と聞いて彼女の頭をそっと撫でる。艶のある髪は抵抗なく手をすべらせていった。
 「それでなにがあったの」
 「電車の中でスマホを触られてるのが嫌だった」
 ゆっくり大切なものを触るように髪を撫でる。
 「せっかくの旅行なのに電車の中で触ってるのが嫌だったの」
 「そっか、ごめんな。俺、近くに人がいたから緊張しちゃって…」
 「そうだったんだ。言ってくれればよかったのに」
 「ごめんな玲美、もうしないから」
 「ううん、今の人たちは誰かと一緒にいる時スマホを触るの普通のことだってわかってるから。私がイケナイの」
 彼女は一体いつの時代の人なのだろう。
 「ううん、もうしないから」
 「本当?」
 「うん、ほんと」
 「分かった」
 「すこし落ち着いてきた?」
 「うん、ごめんね、途中で降りちゃって」
 「いいんだよ。もう少ししたら行こっか」
 「うん」

 そのあと俺たちは外で売られていたキャベツや何かの葉っぱを見て、今日の目的地である羽村駅に向けて電車に乗った。
 羽村駅につき、駅のすぐそばにあるホテルへチェックインをした。
 「ふー、疲れたねぇ」
 「結構いい時間乗ってたからね。ゆっくり休んでて大丈夫だよ。それからご飯行こ」
 「うんありがと。今日さ、酒盛りしようよ」
 「玲美、めずらしいね」
 「せっかくの旅行だもん。たまにはね」
 「おっけー。俺ビール買ってくるよ」
 「待って、私も行く」
 飯を食った後、俺たちは酒を飲んだが、これがなかなか面白かった。
 「ねぇ、今、私のことめんどくさいって思ってるでしょ」
 彼女は僕の顔に赤くなった顔を限界まで近づけて言ってくる。
 「思ってないよ。ほら水飲んで」
 そう言って落ち着かせようとするがうまくゆかない。
 「いらない、いい?お酒ってのはね、酔わないと意味ないの!ほら飲んで!じゃないと私が飲むよ!」
 「俺はおいしく飲みたいのだが、ちょ、それは俺の酒」
 「お金とお酒はだれのものでもないの!」
 何かもっともらしいことを言ったかのような彼女は僕のビール缶を取って飲もうとする。
 「いや、それは俺の酒だ。あー、飲むなー」
 そのあと彼女は何度もお酒は酔って飲んで楽しむものだという持論を展開し続けた。それを聞き流しつつゆっくり飲んで、また持論を展開されるということの繰り返しだった。そんなことをしながら俺たちはいつの間にか眠っていた。

 「おはよ」
 「おはよう」
 寝ぼけている彼女にキスをした。彼女はもう少し寝かせてと言ってまた布団の中にもぐりこんだ。
 俺は昨日残しておいた彼女の酒乱姿を見て笑う。これを見せたらきっと、私こんなこと言ってた?と恥ずかしがるに違いない。彼女が起きるのが楽しみだ。また同じように酒乱になってほしいから、見せないのも手ではある。
 彼女が起きてきて、予想通り、それ消してと連呼された。嫌だと逃げ回り何とか消されずに済んだ。
 それから俺たちはホテルを出て奥多摩に向けて電車に乗った。彼女が途中で気分が悪くなってしまい、急遽鳩ノ巣駅に降りることになった。
 彼女がトイレから待っている間、タバコを吸いながら周辺の地図を眺めていた。
 「ごめんね~お待たせ~」
 「大丈夫だよ、どうする?奥多摩に向かう?」
 「うーん、どうしよっか。せっかく降りたし、ちょっと見てみない?」
 鳩ノ巣駅周辺は山と谷が入り組んでおり、飛び込みをしている外国人がたくさんいた。飛び込んでみてよと言ってみたが、してくれなかった。小さい滝つぼもあり、俺たちはそこに入って遊んだ。岩魚が泳いでおり、捕まえようとしたがなかなか捕まらなかった。
 近くには管理釣り場もあり、やってみたかったが、あまり気が乗らなかったようで、それは見送ることにした。
 それに、川にはダムがあり、魚道が存在していた。
 「ねぇねぇ、玲美魚道だって」
 「なに魚道って、お魚が泳ぐの?」
 「そうそう、ダムがあると、一回ダムの下に出た魚は元の場所に戻れなくなるから、戻れるように作ってあるの」
 「へぇ、これを登っていくの?」
 そう言って彼女はダムの上から魚道の階段を不思議そうに眺めていた。
 「魚は水と反対方向に上っていこうとするから、そんな感じに作ってあるのよ」
 「うまくできてるのねぇ」
 俺たちは魚道に流れる水を魚が昇っていないかと長い時間見つめていた。
 駅に戻ってきたときには12時近くになっていた。近くに蕎麦屋さんがあるということだったので、そこに入ってそばではなく、彼女は山菜飯、俺はヤマメ定食を食べた。これが少し値が張ったがかなりおいしかった。特に彼女の山菜飯は味がよくしみており、これを食べに来るためにまた来たいと思うほどだった。
 お昼ご飯を済ませた後、今回の旅行の目的地である奥多摩に向かった。そこで川に下れて、キャンプができる場所があったのでそこに行ってみた。そこでは元気なお兄ちゃんお姉ちゃんたちが叫びながら川に飛び込みをしていた。
 それを見ながら彼女は私は明るいほうだと思ったけど陰キャだなぁ。とこぼす。そんな彼女の手を引いて河原を散歩して歩いた。
 その時たまたま高校の同級生にあった。彼は俺のことは気にせず、川に足を付け彼女と遊んでいた。こんなこともあるんだねぇと言いながら、河原からコンクリートの道に登る。
 俺たちは奥多摩で楽しみにしていた温泉に入りに行った。もえぎの湯という場所だった。1か月ほど前、彼女が俺の家に来てくれた時、足湯に行ってそこの店主が教えてくれた場所だ。
 とても賑っていて特に男性は整理券を配って、待ち時間があった。その間に店主に勧められた足湯に入った。足だけつけているのにこんなに体が楽になるのはどうしてなのだろう。2日間歩いた疲れが一気に取れていく感じがした。
 整理券の番号が近づき俺たちは一緒に向かう。
 「じゃあ、またね」
 「うん、また40分後」
 温泉は好きだ。彼女が好きだったからということもあるが、誘われていくうちにだんだんと好きになっていった。だから最終目的地をここにしたのだ。
 今回の旅行は楽しんでくれただろうか。そうだといいなぁと思いながら湯船に沈む。気持ちがいい。
 「お待たせ」
 と言って待合室に彼女が出てきたのは俺の10分ほど後だった。温泉は好きだが、そんなに長く入ることはできない。すぐにのぼせてしまう。
 「どうだった?」
 「うん、気持ちよかったよ」
 「そっか、よかった。ここ教えてもらえてよかったよ」
 「足湯も気持ちよかったし」
 「いや、ほんとにね。足湯ってなんであんなにいいんだろう」
 ほんとにね、と彼女がうれしそうに笑う。それを見て俺はとても幸せな気分になった。
 「また行こうな」
 「うん」
 そこから俺たちは長い時間をかけて家に帰った。帰りの電車では彼女は疲れて眠ってしまっていた。温泉に入ったばかりでいい匂いのするその髪をそっと撫で、方にもたれかけさせる。

 「玲美、着いたよ」
 「え、もう?」
 「ふふ、眠ってたからね。さ、帰ろ」
 「うん!」
 俺たちは長旅で疲れ切っていて、家についたとたんベッドに(俺は布団だが)飛び込んだ。
 明かりが消え、外の街頭の光がぼんやりと入る部屋で彼女が動く音がした。
 「今日はありがとう、すっごく楽しかったよ」
 「そっか、それならよかった。俺も玲美の酒乱姿見れたし楽しかったよ」
 「もう、それは忘れて」
 「はいはい」
 俺はそう言うと眠りにつけるよう目を閉じた。
 「ねぇ、もう寝た?」
 彼女の声が聞こえ、半分寝たまま返事をする。
 「ううん、まだ寝てないけど、今から寝る予定」
 「はい、これ、あげる」
 俺は目を開け彼女から何かを受け取る。
 穏やかな光の中、上半身だけ起きてそれを見ると
 「幸せです」
 と書かれたカードが握られていた。
 それを見て俺はどうしようもないほどの幸福感に満たされ、涙が溢れてきた。
 「ありがとう、喜んでくれてよかった」
 となんとか言って目覚まし時計の上に挟む。
 「ごめん起こして。それだけっ、おやすみなさい」
 そういうと彼女は布団をかぶった。
 俺はありがとう、よかったともう一度心の中で言い。
 「愛してる」
 と聞こえないほどの声でつぶやいた。涙は止まらなかった。
 幸福感に満たされ俺は眠りに落ちた。

 リリリリリリリン!
 けたたましく目覚ましがなる。針は朝6時を指していた。
 目覚まし時計の裏にあるスイッチをオフに切り替え、俺は準備を始める。歯を磨き、顔を洗い、そしてスーツを着る。そのあと熱帯魚に餌をあげる。
 「じゃあ、行ってくるね」
 熱帯魚に挨拶をし、玄関に向かう。
 「あ、忘れてた」
 ベットの隅にあったカードを水槽に立てかける。外からは朝日が水槽のガラスと水に反射しきらめいていた。
 「行ってきます」

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