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【観劇レポ】才能に生かされ、才能に殺される ミュージカル「モーツァルト!」

ミュージカル「モーツァルト!」(2021年)の観劇レポ。

例の菌の影響により僕が行く予定だった大阪公演は中止になりましたが、ありがたいことにオンライン配信&アーカイブ配信が実現されたので、大千穐楽公演を見ることができました。(Wキャスト枠 ヴォルフガング役:古川雄大さん、ヴァルトシュテッテン男爵夫人:涼風真世さん)

才能は誰のものか

「神童」「奇跡の子」と言われた天才音楽家・ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト。自分の才能に自信を持ち、それゆえに自分の才能に縛られる苦悩と狂気に満ちた彼の半生を、彼と彼の才能の化身「アマデ」を通じて描くミュージカル。

全部が全部史実通りのお話ではありませんが、ヴォルフガングの才能や行動に対してそれぞれの登場人物がどう捉え、どう考えているかという視点で見るのが楽しみポイントとかなと思います。

ヴォルフガングとアマデ

主人公・ヴォルフガング。自分の音楽の才はほかならぬ自分のものであり、自分そのものだと考えています。

自分の才能を信じてやまない一方で、その才能に神童と呼ばれた幼き頃の栄光の影を見てしまい、次第に才能=アマデの存在を恨み憎むようにもなってしまう。才能があるがゆえに自由を求め、自由を求めるがゆえに才能に縛られる。

その才能の化身は幼き日のヴォルフガングの姿をなしたアマデ。あくまで現実に生きているのはヴォルフガングであり、アマデは彼の中に生きているもの。
「芸術家は自分に厳しいものだ」という父の教えに従って生きており、自由を求め遊び惚けるヴォルフガングに対して、常に羽ペンを掲げて曲を書くようにアピールします。
ヴォルフガングがどんな状況にあってもひたすらに譜面と向き合う様は、ある意味狂気。子役の方の「目で語る演技」は引き込まれるものがありました。そんな目、25歳のおじさんにはできないよ?

アマデが持っている「箱」は彼の才能そのもの。アマデがいかなる時も肌身離さず所持していて、自分自身であるヴォルフガングにすらも渡そうとはしません。ヴォルフガングの才能として泉のように湧き上がる「音」を譜面に起こしていく一方、才能におぼれ、あるいは才能や過去の栄光から逃げようとするヴォルフガングを追い詰めていきます。

このストーリーはモーツァルトの悲愴的までに思える自分との闘いの物語。アマデがいなければ、つまり才能がなければ音楽家として成功することもなく、自由に生きようとすることすらもできなかったかもしれない。でも才能があるからこそ、それが重荷となって自由に生きられない。自由と才能は両立するようで両立しない

その狭間で苦悩する過程で、ヴォルフガングが傍で理解者でいてほしかった父や姉、妻とはすれ違う。一方で皮肉にも自分の才能を認めているコロレド大司教とははなから分かり合えないどころかヴォルフガング側から拒絶します。

自分との闘いは周囲との壁を築き、徹底的な内省を強いて、孤独。終盤の狂気に憑りつかれたようなヴォルフガングは、息をのむというか、呼吸を忘れるほどの気迫がありました。最終的に、アマデもろとも死を選ぶことで自分の才能と人生に幕を下ろす。才能に生き、才能を愛し、才能に苦しみ、才能とともに死んだ。死んで彼は自由になった…のでしょうか。

レオポルト

父・レオポルト。ヴォルフガングの才能を「自分が育て、磨き上げた」と自負し、その才能を無駄遣いしてほしくない、家や家族の生活を守るために使ってほしいと願っています
「奇跡の子」が「ただの大人」になるのを恐れていて、彼の才能を使い道を父として導かねばならないとも思っています。ヴォルフガングの才能は彼のものでもありながら、モーツァルト家が生き残るためのものでもある。モーツァルト家が生き残るためには、高貴なお方にその音楽を献上し生きるべきであると考えています。

息子を愛するがゆえに、その才能におぼれて痛い目に合わせたくない。順当な人生を歩んでほしい。まさに親の心子知らずですが、息子と息子の才能を愛するが故、ヴォルフガングと反発してしまいます。悲しいことに、とうとう死ぬまで分かり合うことはありませんでした。
互いを愛していることは間違いなかったですが、彼の考える「息子への愛」とヴォルフガングの考える「父からの愛」、その二つは中身の違うものだったのだと思います。

市村さんのレオポルトはさすがとしかいいようがない。声量と表現とバランスがいいのか、ずっと聞いていられるお声。まさに父。

ナンネール

ヴォルフガングの姉。ヴォルフガングの才能を彼のものと信じてやまない一方、才能そのものよりもヴォルフガングという人物に寄り添う人物だと思います。

彼女自身も幼き頃は神童と言われながら、成長とともに音楽を生業とすることにはなりませんでした。彼女もまた(ヴォルフガングの)過去の栄光に縛られている人。
弟の才能を信じる彼の理解者でありながら、彼がその才能を家族のためには使おうとしないことを悔やむ。自分がヴォルフガングほどの才能を持っていれば、貧しい生活や苦悩する父を救えるのにと。

ナンネール役の和音さん、聞き取りやすいお声もさることながら、所作と姿勢が美しすぎました。さすが宝塚出身ともいうべきか…喪服礼装で出てくる場面、出てこられただけでなぜかサブイボがたちました。美しすぎて?

ヴァルトシュテッテン男爵夫人

ヴォルフガングの才能は「彼が生まれ持ったものであり、ほかならぬ彼のもの」と考えており、彼の才能を活かすためウィーンへ誘い後見となります。

彼女がヴォルフガングのウィーン行きを説得するため、ヴォルフガングとレオポルトにおとぎ話を語るシーンがあります。そのおとぎ話で、父の加護から自由を求めた旅に誘う「憧れの精」が出てきますが、作中ではまさに彼女が憧れの精としてヴォルフガングを導きます。

ヴォルフガングの才能を買っているが故、彼の才能を活かし自由の身となる場所に導く役割である一方、その導きが結果的に彼に自身の才能との向き合いを強いて、絶望にも追い込むことになるのは何とも皮肉。
彼の才能を認めつつ、その才能を彼がどうコントロールするのか、見定めているようにも見えます。そういう意味では憧れの精でもありながら、どこか劇中の人物の中ではストーリーテラーのように中立的・俯瞰的なイメージ。

コンスタンツェ

モーツァルトの妻・コンスタンツェ。ヴォルフガングが持っている才能は、中身はよくわからないながら人並みではないことを感じ、その才能を自信とし自由に生きようとする彼に惹かれていきます。
同時に、「音楽家の妻」としてその才能にインスピレーションを与えなければと感じていながら、与えることができない、それどころか普通の妻として家事もできない自分に苦悩します。またその才能ゆえに苦しみ狂気と絶望に向かっていく夫・ヴォルフガングに寄り添い理解することができず、彼女もまたヴォルフガングの偉大過ぎる才能に苦しめられる。

「自由に生きること」を求めていたという点では二人は共通していて、自由に振る舞う才能ある夫に惹かれた一方で、それゆえにすれ違い、「今生きている実感」を求めて夜な夜なダンスパーティへ。

等身大の自由な彼が好きだったのに、どんどん孤独の深い闇へ落ちていく夫は彼女にとっては未知の存在に。ヴォルフガングと彼女のすれ違っていく様は、身近な理解者になることができたはずの妻すらも受け入れられなくなり、ヴォルフガングが自らの才能と向き合い孤独になっていく様をより際立たせています。

コロレド大司教

モーツァルト家が仕える領主であり、ヴォルフガングの才能、作品を自分のものだけにしたいと考えています。間違いなくヴォルフガングの才能を認めているのですが、それを独占しようとするのでヴォルフガングに嫌われ、反抗されます。

単なる独占欲だけでなく、ヴォルフガングの不安定さに気付き、その才能を失いたくないがためにあの手この手でヴォルフガングの前に立ちはだかる。人物としてのヴォルフガングは不遜で不躾だと嫌っていますが、彼の才能には人一倍惹かれており、ある意味作中で一番ヴォルフガングの才能の虜になっている人物。ヴォルフガングの人物面に一切興味はなく、その才能そのものを一番評価しているのはコロレドかもしれません。

ある意味憎めない悪役で、途中からかわいらしさすら覚えました。モーツァルトのこと好きすぎるでしょう、このおっさん。歴戦の山口さん演じるコロレドは貫禄たっぷりでした。

音楽と衣装

音楽を題材にしているだけあって、劇中の楽曲は豪華で耳に残るものばかりです。管楽器やピアノ、弦楽器の音はもちろんのこと、ロックなエレキギターもすごく特徴的です。ヴォルフガングの生き方は当時にしてみればかなり「ロックンロール」な生き方なのかもしれません。それを象徴するようなエレキサウンドが耳に残ります。

ヴォルフガングやコンスタンツェ、ウェーバー一家など、「自由」を求めて生きた人の衣装は、ジーパン、プリントTシャツなど現代的な(非近世ヨーロッパ的な)要素があります。当時アメリカ独立戦争や、フランス革命が勃発した時期と重なるので、世界や時代そのものも「影=過去」から逃れようとうねり始めていたのかも。

モーツァルトの楽曲も一部出てきますが、やはりミュージカル「モーツァルト!」としては、「マリー・アントワネット」と同じ楽曲コンビ、クンツェ&リーヴァイの音楽が耳に残る。実際歌うとなったらめちゃくちゃ難曲ばっかりだと思いますが。

名曲と名高いところで行くと、まずは「星から降る金」。涼風真世さんの声が劇場を支配してました。圧巻の一言。この曲を聴いて「やっぱり生で劇場で見たかった」としみじみ思いました。これは劇場で聴いたら間違いなく体中の細胞が支配される。音に抱かれる。感動とか興奮とか、この世にある日本語の髄を尽くしても語りきれないこの感覚。オンラインですら感じられるならいわんや劇場をや。

コンスタンツェの「ダンスはやめられない」も圧巻。木下さん、どこからその色気出てるん…?木下晴香さんっておいくつやったっけと後で調べたら、22歳。と、年下??それでこの表現力?たぶんこの世界での年齢の数え方が間違ってる。
年齢で表現力を語るのはナンセンスとは言え、すごすぎる。あの細い体のどこからあの声量が出ているんでしょうか。参りました。白旗。

1幕、2幕ともにフィナーレを飾る「影を逃れて」は作品を象徴するヴォルフガングの楽曲。彼の苦悩をそのまま音楽にしたような魂の叫びでした。古川雄大さんは陰が似合う。「僕こそ音楽」の明るい無邪気な感じも素敵でしたが、ダークな面の表現はトップレベルじゃないでしょうか。
1幕の「影を逃れて」は必死さ、逃れたい気持ちみたいなのが前面に出て、切迫感、悲壮感、魂の叫びと言う感じでしたが、2幕は絶望的でありながら弔いの歌でもあるような。モーツァルトが残した未完の曲「レクイエム」かのよう。

地味に好きなのが「ここはウィーン」。作中の中だとマイナーな曲だと思うんですが、こういう主役が絡まないところでアンサンブルがヒソヒソと語らうみたいな雰囲気が好きなんですよね。「見て見ぬ振りするのも礼儀作法」っていう歌詞がなぜかめちゃくちゃ頭に残ってる。上品な嫌味って感じ、好きですよ(僕の性格が悪いことがばれる)。

「星から降る金」「ダンスはやめられない」みたいに一人が際立って劇場を支配する曲も好きですが、アンサンブルが生き生きしている曲も好き。シカネーダーのメイン曲「チョッピリ・オツムに、チョッピリ・ハートに」も、アンサンブルそして観客も一体となって楽しめる曲ではい、好きなやつです。シカネーダー役の遠山さんも楽しそうでした。

カーテンコール

僕が一番楽しみにしているカーテンコール。和音さん、木下さん、涼風さん、山口さん、市村さん、そして古川さんがそれぞれご挨拶。
市村さんがしっかり笑いを取っていかれるのも、涼風さんが涙目(たぶん?)だったのもしっかり目に焼き付けました。あと分かってはいたけど山口さんの語りが優しすぎてギャップ萌えします。ホンマにさっきまでコロレドやってた人?配信はアーカイブで何回も見れるのがいいですね。カーテンコールだけ5回くらい見ました。

改めてみると衣装が色とりどりやなあと。ストーリー自体は決してハッピーエンドでもないですが、さすが東宝ミュージカル、豪華ですね。演出家の小池さんも登場して、千穐楽らしく結構長めのカーテンコールでした。小池さんも言ってたけど、木下さんやっぱり色気すごいですよね?ほら僕が言った通り!(変な意味ではないです)

最後に

「自分との闘い」というテーマ。ヴォルフガングの才能は非凡で類まれなものですが、自分との闘いで苦しむというのは身近なことですよね。過去が重荷になったり、過去にとらわれて動けなくなったりというのは誰にでもあること。

その果てに絶望で死んでしまったヴォルフガングとは違い、僕らはどう闘っていくべきなのか。自分自身から自由になるとはどういうことなのか…。全然答えらしいものも持ち合わせてないですが、ぼんやり考えました。うーん、テーマは卑近やのに答えは難しい。違うキャストの公演を観たり、また自分が年をとって観たりすると見方も変わってくるのかも。

「スリル・ミー」の感想でも同じこと書いてますけど、でもやっぱり生で劇場で見たかった。音に包まれたかった。音に抱かれたかった。
アーカイブで何度でも見れるところ、アンサンブルの表情すらも見れるくらい細かい表情も見れるところは配信のいいところなんですけど、全体を見るとか、空気感とかはやっぱり生ですね。役者さんたちの歌や演技が素晴らしいからこそ、配信でも伝わるけど生で見たい気持ちもどんどん増します。

とにかく中止公演もあった中でしたが、大千穐楽まで走りきられてよかったです。お疲れさまでした。ぜひまた次の公演をお待ちしてます。次こそ劇場で・・!

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