学校教育は、日本人を障碍者にする。


少しちょっと感じたのが・・・


原因は何と無くにはなりますが、日本の健常者は実は…後天性の発達障害を患ってるのです。健常者であるにも関わらず、発達障害並みのコミュ障だったり、興味・関心が狭かったり、知識の凹凸があったり、こだわりが強かったりと『本当に健常者なの?』と疑ってしまう…そんな大人が増えているだと思います。それくらい大人の発達障害…増え過ぎっていうツッコミを入れたいくらい激増してます。まさに今の日本は、一億総発達障害社会なのです


学校教育自体が、「発達障碍者を製造装置」の面があると思う。


このような御恩と奉公の関係が、「空気を読む」の大きな物語であり、我々はこの空気を読む生き方を強いられる。
そしてそれは東京大学に入らなくても、我々凡人にも適応されている。
「従順で問題を起こさない」、これこそ基本的人権の尊重である。
「従順」は時代によってその条件は違う。戦争中は敵兵を殺してくることが従順であったが、現代は殺人は「問題」にされてしまう。
現代の従順とは、公共の場でタバコを吸わないだとか、セクハラやパワハラはしないだとか、TPOをわきまえろだとか、そういったわかりやすい案件が示すように、他者を尊重して生きなさいということだ。
現代人から見ると異常な昭和のオールパワハラ時代が放置されていたのは、そのほうが社会システムを低コストで維持しやすかったからである。
スマホを中心とした消費生活が代表する個人主義の極限に達した現代社会において、以前よりも過剰に他者を尊重することはコスト管理的に正しいのである。そこにあるモラルや規範などというものは単なる後付である。我々「個人」は現代社会から見れば最高のお客様である労働者であり消費者なのだから。

では現代社会が求める「空気を読む」の条件である「従順で問題を起こさない」とは何か?
それは資本主義経済のためにあらゆる権威を排除した生活空間において、従順で問題をおこさないことである。
権威があった時代、わかりやすいのは昭和経済成長期のオールパワハラ時代だ。家父長制や宗教的慣習や男女差別といった権威は、当時の社会システム維持のための低コスト化に貢献していた。
しかし、お客様である家畜化された個人を必要としたグローバル経済により、そういった権威は排除されていく。
故に、権威が包摂していた「従順」がより末端の人間性にまで降りてきたのである。
かつては父親に言われるがままに結婚を強いられていた女性は、現代ではGDPを押し上げるために働き、消費し、Instagramの経営に貢献している。
これは進歩とされ、僕も個人としてはとても良い時代になったと思う。
しかし、権威に任せてきた抑圧が開放されたため、より個人にセルフ抑圧を求めることになる。
かつての「空気を読む」が「父親の言うことを守る」であったものが、個人のコミュニケーションにまで浸透してきたのである。
ゆとり教育はまさにその典型で、上からの抑圧を緩ませたために、下からの抑圧を惹起させた。わかりやすい指標(勉強ができる、運動ができる、喧嘩が強いなど)が権威を失い、末端の人間性にまで落ちてきたことでコミュニケーションスキルやキャラクターで自己を守るという強制力が働く。
権威が守ってくれていた暗黙の了解が消え去り、個人で戦わなくてはならなくなったのだ。
故に「空気が読めない」は「問題」になってしまった。
その「空気」は権威が消失したため、一見わかりにくく、また関係や環境ごとに違う世界を持つようになった。
さらにスマホが登場し、ネット上でのコミュニケーション空間まで誕生したため、より高度なコミュニケーションスキルが必要とされる。
時代も高度情報社会、就労に必須なスキルは多様かつ広範囲であり、サービス業偏重の社会はコミュニケーションスキルに自己責任をも包摂する。
こうして権威が失墜し、個人が生きやすくなった社会は、逆に個人が空気を読んで責任を取ることが当たり前になってしまった。

空気は読めるようなる・・・でも、その周りの世界の動向は・・・自然や、自分の命を守るのための先読みは・・・もっと読めなくなった。


まあ、明治以降の外交政策やそれを受け取る日本人・・庶民も知識人も、、大概な発達障碍者よりも、「世界」の空気を読めないのであるからね。



まあ「世界の空気」「まともな論理」が読めると、「天皇」の存在など、認めるのが「アホ」ってわかってしまうからね・・・



「天皇」を権威の頂点にして「天皇の理由を問わない・問えない」~国家・社会の正当性やその存在理由を問わない。
てのが「天皇」

なら「これが悪い」「虐殺は絶対悪」とか言っても、その悪事に「天皇」が加担したら「素晴らしい虐殺」「正義の鉄槌」になる。
それが「天皇」というモノの実体であるのは、前の敗戦で「天皇が責任を取らない」ことで明らかになっている。
崇徳院・後鳥羽院でも島流しになっているのに、裕仁が無罪放免とは、「天皇」にとって、「日本人が夷狄に虐殺されるのは、無問題」である・・てのが、天皇日本の法秩序になっているしね・・

なら「侵略者に沖縄が犯されている」など「天皇家の利権・天皇の存在理由に関係無い」で抹殺できるのだ。

そうなると、「状況に合わせて論理的に考え、適切な行動をする」よりも「空気を読んで、周囲や権威に合わせる」ことをしないと、潰され殺されますよね・・。


まさに

このような御恩と奉公の関係が、「空気を読む」の大きな物語であり、我々はこの空気を読む生き方を強いられる。
そしてそれは東京大学に入らなくても、我々凡人にも適応されている。
「従順で問題を起こさない」、これこそ基本的人権の尊重である。
「従順」は時代によってその条件は違う。戦争中は敵兵を殺してくることが従順であったが、現代は殺人は「問題」にされてしまう。
現代の従順とは、公共の場でタバコを吸わないだとか、セクハラやパワハラはしないだとか、TPOをわきまえろだとか、そういったわかりやすい案件が示すように、他者を尊重して生きなさいということだ。
現代人から見ると異常な昭和のオールパワハラ時代が放置されていたのは、そのほうが社会システムを低コストで維持しやすかったからである。
スマホを中心とした消費生活が代表する個人主義の極限に達した現代社会において、以前よりも過剰に他者を尊重することはコスト管理的に正しいのである。そこにあるモラルや規範などというものは単なる後付である。我々「個人」は現代社会から見れば最高のお客様である労働者であり消費者なのだから。

その通りなのです。

だから、逆に「世界の空気」とか「自分の命を守る」とかには、その「読み」が通用しないのですよね。


未だに「ウクライナ支持」とか「mRNAワクチンの接種の続行」とか、その端的な例ですよね。


まあ、徒然な感想です。


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