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雨の日に・・ *

雨の日に思い出すことがあります。それはあの日とか、あの時とかではなく、あのころを思い出すという話です。

うちには車がありません。一度もあったことがありません。あると便利なのに違いありませんが、ないのです。買うお金がないというよりも、ただ買えない。脱成長を学んでいる僕にとって、日本が経済的に凋落していることは火を見るより明らかで、僕の収入で自動車という奢侈な消耗品を買うのはたいへん難しい。

これは僕の決めたことで、くつがえすかもしれませんが、選んだことの一つです。するといい迷惑なのが、僕の妻や娘です。車に乗ってお出かけということを頻繁にはできないわけです。どうしても行きたいときは、レンタカーで車を借ります。病院に行くときも車に乗ってということがしづらいので、徒歩か自転車で行くわけです。


娘の園児のころ、雨の日の登園・降園は決まってレインコートと傘と長靴と自転車でした。娘のクラスに15人ほどいましたが、僕たちともうひと家族以外はみんな自動車で行き来をしていました。

娘にレインコートを着させ、僕は傘を片手に自転車をこぎます。目立つのは園に着いたとき、園を出発するときです。他の家族はみんな車なものだから、なんだってあんな不便なことをしているのだろうと思われたでしょうし、娘はなんでウチだけ自転車なのかなと感じたでしょう。不便でもまったく自動車を使わないウチの登園・降園のようすから、買うお金がないのかな?と思う人もいたかもしれません。

娘もいつか思い出すでしょう。周りはみんな自動車だったのに、ウチがなぜ自転車だったのか。不器用な選択です。みんなスウスウと自動車で道を走るのに、わざわざ不便な自転車で風に逆らいながら水たまりでしぶきを上げながらキーコキーコとこいでいくのです。なぜそんな選択をしたのか。恥ずべきことだったのかな?という入りかたをするかもしれません。娘はいつか思い出すのだと思います。


学び選ぶこと。それは自分の身の丈にあった、みんなはしていないかもしれないけれども、自分のすること。その選択は時代や環境から選ばされている面もありますが、そのなかでも学びとって選ぶ面もあります。不自由ななかから、自由に選択をする力を学びはつくります。

選択は今と未来とを変えていきます。そのためにはおそらく、過去や今から学んでいくのでしょう。それからやがてわずかな未来が視え、それにむけて選びます。事物や行動や習慣や意志を。


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