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みんなで明かりを灯す

□景色
1898年、バンクーバーにて河井道の新渡戸稲造博士との対話、忘れられない教訓。

「何を見ているのですか」と博士はきかれた。
「通りの灯を見ております」。
「あっちこっちに、たくさん提灯がついているでしょう」。
「まさか、そんなもの」とわたしは答えた。
「よく目を開けてごらん、きっとみんなが提灯をもって歩いているのだよ」。
「新渡戸先生、ここは日本ではないんですもの。提灯なんか見えません」。

「どうしてかな?」
「通りがすっかり明るくしてありますから提灯なんかを持って歩く必要はないのですもの」。
「ではなぜ日本ではみんなが提灯を持って歩くのだろう?東京でさえね」。
「なんてつまらないことをおききになるのでしょう? もちろん、街が暗いからですわ」とわたしは憤然として叫んだ。
「さて、どっちが安全だろう」。博士は自分が考えている要点をさとらせようと、真剣になって話しつづけた。「街を明るくしておくのと、めいめいが提灯を持って歩くのとね」。

「もちろんですわ。——街の明るい方です」。
「その通りだ」と彼は叫んだ。

□本

『わたしのランターン』 河井道
新教出版社 1968年
*一部抜粋

□本文
「あなたは提灯を持ってあるいている時でさえも、溝に落ち込んだことはありませんか。いいですか、あなたはこの国にいる間によくこの事を覚えておきなさいよ。大学にいても、店にいても、あるいはただ友人たちの間でも、事をするには、みんなが力をあわせてするのです。それが協力というものです。日本ではまだめいめいが提灯をもって歩くのだが、これは費用がかかって、しかも安全でない。わたしたちはまだ働くにも、遊ぶにも、共同ですることを知らないから、何でも提灯式にやる。あなたをアメリカに連れてきたのは、ただ知識を高めるためだけではない。もしそれが唯一の目的だとしたら、日本にいてもあなたが生涯かけても吸収しきれないほど学ぶことはある。ここでは、あなたの本当の教育は、本や大学のそとにあるのです。それからもう一つは、——多くの偉大な人物と接触するようになることでしょう」。

「日本には偉い人物はいないのですか? こんなに遠くまで、偉い人に会いにこなくてはいけないのですか」。わたしは愛国心が少し傷つけられてたずねた。

「そう、日本にも偉い人物はいます。しかし祭り上げられています。ところがアメリカでは、台所に、学校に、人生のあらゆるありふれた路上でみつけられるのです。キリスト教の大きな働きの一つは、人格を、社会の階級にはかかわりなく、成長させることなのです。日本では偉い人物というものを、地位の高い人とか、家柄のよい人とか、大学者だけの中に探す傾向があります。実にすばらしい人たちが、偶然この世的には低い身分にあるために、見落とされることがよくあるのです」。

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