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まちがえることなんて、世界のへりから見ればへでもない *

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の一部において、「世界のへりに立つ」ことをオススメしました。世界のへりに立つことで、なぜ生きるのか、どのように生きるのかという問いをもった上で日常にいた世界を見渡すことができるからです。そして、なぜ生きるのか、どのように生きるのかという問いに対し、なんらかの前向きな力を与えてくれる可能性が生じると考えているからです。


世界の中央では、よく正しいことが求められます(僕のここでいう世界とは人間社会のことです)。世界の中央、つまり学校や会社、政府、それらの規模が大きければ大きいほど、そこにいる人たちは正しいことを求められます。それに従ってものごとを進めてもらわないと、組織として混乱しやすいからです。混乱が極まれば組織は破綻してしまいます。

なので、まちがえることは避けるべきこととなります。「やっちまった!」とつい思ってしまう出来事、いわゆる失敗とかまちがいとかになるわけですが、それは正しいことがあって、正しさを求められていて、それに応えられなかったために、そう思えてしまうのです。


でもそんな「やっちまった!」と思うことは、実はなんでもない、大したことのないことかもしれません。世界のへりから見れば、なんてことのない、取るに足らない小さな事象です。

なんなら「まちがえて何が悪いの?」とすら思い、受け止めていいのかもしれません(そもそも悪いと言われていることは本当に悪いことなのか?・・なんてことすら僕は思っていますが)。


僕たちは生きるために、時おり世界の中央に行きます。でも世界の中央にいつづけないと生きていけないわけじゃありません。家に帰ると、世界のへりとまではいかないまでも、中央ではない周辺あたりで、必ずしも正しいことは求められていません。そこで気ままに過ごしてもいいのです。まちがえることも赦されます。

世界のへりに行けば、ますます気ままに過ごしてよく、まちがえることはますます赦され、正しいことはほとんど存在しなくなります。なぜなら世界の外側、そこはもう無法地帯です。なんならそちらにジャンプすればいいのです。


今回はなんだか抽象的な言葉にたよった文章になってしまいました。最近読んだ本がすこし固い内容だったからかもしれません。ですけれども、こんな事実もあるということを備忘として、ここに記しました。

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