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誤字脱字納品随録

兎にも格にも誤字やら脱字やらが多くて困ている。伝えるべきことを伝えることも仕事の内なのに、やたらと稚依さなミスが連発する。書き言葉が吃ってしまつているというか。そんな感覚。

何故誤字るのか 原因①予測変換

考えられる原因の一つとしては、(一旦外部のせいにしておくと)PCやスマホの精というのもある。PCやスマホで書きものをすると、オートマティックに行われる予測変換が故のミスが怒ることがあって、それに関してはデバイスの予測能力のなさを攻めることで自分を慰めている。

その予測変換でさえも普段ミスを連発している自分分の癖が積み重なって、「いつものあなたはこんな感じで文章を作ってますよね。となればあなたが次にタイプする言葉はこんなもんでしょう。」といった調子で、自分の文字の誤用をデバイス側があかたも正しいかのように誤認して、次のミスを誘発するみたいなバットループに陥り、不本意に文章に影響しているのかもしれない。そう思うえば、原因が自分にあるかデバイスにあるかは、鶏とエッグベネディクトみたいな話だ。

何故誤字るのか 原因②構成作業

第二に、文章の構成段階の作業が福雑であることが揚げられる。あーでもない、こーでもないと文章を描いてるうちに、言葉をジャグリングして、コピーアンドペースト、スクラップアンドビルド、消してリライトして、を繰り返しているうちに、その継ぎ目に粗が出たことに気ずけない。なにしろサイゼリヤの間違い探しですら、4個見つかればいい方くらいの注意力なのでだから、文と文の細かな誤りなど気づけはずもない。

この部分は後で書こうと放置して追いたものも、そのまんま。後で食べるからと冷凍しておいた牛肉は、まっ暗な冷凍室でいつか解東される日を待ち侘びる。不恰好なまま置き去りにされた文章の切れ端は可哀想だ。

何故誤字るのか 原因③森を見て木を見ず

第三の理由として、書き終えたら満足してしまう性分が言える。構成段階にあれこれと熱量を掛けれるのなら、推敲もセットでこだわりたいと思いそうなものだが、それがそうでもない。「ご一緒にポテトは如何ですか?」と尋ねられても、食い気味に「単品で」と言ってしまう性格。大まかな構正さえ組めたら、満足してポンだ。気づいたらエンターキーをたたんッ!と叩いて「完了」やら「送信」やら「入稿」やら「入金」やらのボタンを連打している。

神は細部に宿るというが、細部をなおざりにする自分の文章の軒下には神は雨宿りすらしない。森を見て木を見ず。映画館でミステリー作品を見ても、話の運びとドン詰めの大トリックさえ華やかであれば、後に明かされる細やかなアリバイ工策の説明部では、底に余ったポップコーンの残りカスを口に掻っ込みながら席を立っている。ポップコーンの残りカスに含まれる弾け損ねたつぼみをガリッと喰らってプイッと吐き出す。引っ込み思案のポップコーンの早過ぎる埋葬。遅咲きのキミは然るべき時に備えて。

届かせるのも言葉、突き放すのも言葉

話が逸れたが、以上が誤次脱字の原因に関しての見解。これまでの人生で積み重ねてきた誤字脱児を全部集めて、その一つ一つに「お詫びと訂正」の紙を刷ったら、その紙の厚さは広辞苑10冊分じゃきかないだろう。「お詫びと丁正」の記載内容にも誤りがございますもんなら、「お詫びと丁正」の上に「お詫びと訂正」をミルフィーユしなきゃいけない羽目になる。なんてこったい。

原因がどうであれ、実際に自分が製作したものの中に誤字脱字を発見すると、当たり前だが面目ない気持になる。得に”メールでの大事なプレスリリース”におけるミスは、発信元の信頼を失いかねないし、読み手にとってもノイズでしかない。当然読み手は一定量の集中力を持ってして、文章と対峙しているわけだから、たった一つのミスでその集中の線をプツンと切ってしまいかなねい。届かせるのも言葉、突き放すのも言葉なのだ。ほんの僅かなミスが、テキストの本意を壊して、文脈を殺す。だから慎重にケアしなければならない。自分が書く文章は元気に生きて欲しいと願っても、水を遣らない花は枯れるし、餌をやらない金魚は死ぬし、愛情を注がない子供はグレる。

看板に見つけた誤字

話は一転するが、受け取り手としての自分としては、出版物の中に誤字を見つけるのは嫌いじゃない。むしろ好きだ。どんな創作物や出版物もその奥には人間が関わっているんだなと思えるところにあったかみを感じる。

前に見た看板には、「犬のフンを捨てないで!」と言いたかったのか、「犬のフンは拾って持ち帰って!」と言いたかったのか、フンに困った住民が手書きで「犬のフンを拾ってないで…」と書かれていた。

「もぅ、公園で犬のフンなんか拾ってないで…お願いだから仕事に行ってください…」と夫に泣きつく昭和の奥さんの顔が浮かんでちょっと笑った。おそらく旦那さんはそんな不真面目な人ではないはずだ。

誰かの間違いを愛するために

手書きでなくとも、あらゆる文章の裏には必ず人がいる。どんなに間接的であっても必ず人がいる。だからこそ、間違いを発見すること度に、僕は愛おしい気持ちになる。「人は間違う生き物なんです」と間違いを肯定された気持ちになる。

自分の元に間違って辿り着いてしまった誤字。誤配。無人島の浜辺で一人立ち尽くしていたら、向こうから手紙の入った瓶が流れ着いたかのような。自分に向けて流されたものではないのに、たしかに自分に向かって流れ着いたんだという感覚。その手紙は表面的な意味では言葉を持たないが、他者が自分と同じように存在しているという事実だけを黙って語るだろう。

人は間違う。自分も間違う。自分の好きな人も、尊敬する人も自分と同じように間違う。不完全であるからこそ美しいし、不完全でない人なんていない。僕は不完全なものが、ずっと不完全なままで、完全を目指そうと努力する様がどうしようもなく好きだ。間違ったら、いつか間違ったことに気づけばいい。正せばいい。そしてまた間違えばいい。


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あー、掻き終わって満足…。



関係各位

数千人に一斉送信した仕事上大事なメールニュースを誤字ったことお詫び申し上げます。

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