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言葉は祈りだと思う。書道家のパフォーマンスを見て思ったこと。

筆を持った彼女は巨大な書道紙の前に立って微動だにせず、精神を集中させていた。

それはこれから動かす筆が寸分の狂いもなく、正確に言葉を刻むためというわけではなく、おそらく、自身が言葉に込めた想いを心から身体へ、身体から筆の先へと、閉じ込めているような儀礼的な静止に見えた。

そこからゆっくりと筆を揺らし、深く一礼する。墨をたっぷり吸い込んだ筆が、そっとすずりを離れる。

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「言葉なんて役立たずだ。」そう思っていた。

世界は言語でできていると言うけれど、世界中に散らばった言語を具象化して形にしても、複雑な現実の世界は再現できず、単なる世界の形を模した無骨なハリボテにしかならないと思っていた。

私自身ブログに想いを綴ったり、Instagramにしがないポエムを残したりするが、「届け、届け。」と思う反面、言葉なんてどうせ自分の言いたい事の半分も伝わりやしないんだという一種の諦観を持って書いている。

言葉というのは往々にして表層的かつ刹那的に使われてしまうことが多い。例えば、「優しい」という言葉について。

想像してみてほしい。あなたは約束の時間に遅れそうで、地下鉄の駅の階段を駆け下りて満員電車に乗り込む。なんとか乗り込んだ車内で「腰を下ろしたい」と思った矢先、幸運にも自分の目の前の椅子が空いて、一席を獲得できたとする。全力疾走で乗り合わせた瞬間の出来事ともあれば心の中で「ラッキー」と呟いて、自分の運の良さに酔いしれながら席に座る。しかし、次の駅で見たところ50か60歳くらいの年配の方が乗り込んできた。あなたは「席を譲ろう」と思い立つが、同時にこんなことに思いを馳せてしまう。「私が初見で席を譲ろうとしたこの人は確かに自分よりはるか年配ではあるものの、まだ自分のことを老人と呼ぶには憚られていて、依然若くて元気なんだという自負を持っている人だとしたらどうだろうか…」ここであなたが身勝手にこの年配者に席を譲られるべき対象の”老人である”というレッテルを貼ってしまうことに一瞬躊躇してしまう。ここでいう”席を譲る”という優しさが年配者のプライドを間接的に傷つけることになってしまうのであれば、”席を譲らない”のが自分にとっての優しさの表明になる。しかし、それでも自分より年配なのだから「席を譲らなきゃ。席を譲ってあげたい。」という気持ちを昇華するために、ある施策を思い付く。あたかも自分の到着駅がここであるかのような素振りをして席をたてば、相手に”席を譲ってもらった”という罪悪感も、”自分は老人なんだ”という認識も持たせずに席を譲ることができる。これだ!

そう思った瞬間、あなたの隣に座っていたイヤホンで音楽を聴いていた若者がふと年配者の姿に気がつき、なんのためらいもなく素早く立ち上がって、その”老人”に席を譲ったとする。席を譲られた年配者は”老人”として笑顔で席を譲ってもらい、「ありがとう」と若者に礼を言う。あなたは頭の中で必要以上に大きく広げていた”本当の優しさとは何か”という風呂敷を畳むことができずに、「ありがとう」を横取りされた気持ちになる。

あなたの”優しさ”は言語の上での世界では事実上存在しなかったものとされ、カウントされない。あなたと席を譲った若者との関係性は、”優しくできた者”と”優しくできなかった者”という壁で分断される。言語が支配する世界において、あなたは何も考えず老人に席を譲ってれば正解を出せたわけだ。

それくらい言葉というものが持つ意味は真実とは遠く、不器用なほど現実を映し出せない。

しかしその後、私が持っていた”言葉”というものの前提は、ある書道家のパフォーマンスによって覆された体験をした。

書道家がその”言葉”を視覚化した”文字”を扱う時の所作の一つ一つを間近で目にした時、私は言葉が持つ本当の力に気づかされることになった。

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大きく踏み出した右足と共に、筆が激しく着地する。大胆でいて、繊細さを欠かない。流れるような筆の動きと共に、そのままでは意味を持たない白紙の世界に、”言葉の片鱗”がしがみつく。

一文字目を終えた時、彼女はスッと一度立ち上がり、また筆を墨に戻す。

この時何が書かれているのか、次に何の文字が続くのか、私には検討がつかなかった。まるで少しずつ形を帯びていく、世界の成り立ちを見守っているような気分だった。

筆がまた着地する。緩急はあるものの、全体としてゆっくりと、”言葉”が顔を出してくる。”言葉”は本来このくらいのスピードで丁寧に発せされるべきなのかもしれない。

三文字目がさっきまで何もなかった下部分の空白に刻み込まれた後、彼女は素早く筆を持ち替えて、言葉の横に名前を残し、捺印をする。

書道家のパフォーマンスは、最後にまた一礼で締めくくられた。

そこに書かれた”言葉”は、「日本魂」。

厚み0.05mm程度の紙の上に残されたその”言葉”は、口に出すより遥かに重く、分厚い響きを含んで見えた。

書道家が”言葉”の横に残す名前と捺印は、「これは確かに私が残した”言葉”です」という後に引けない覚悟であり、”言葉”がその上っ面だけを引っ掻き合うためだけに使われる事なく、”言葉”に内包された想いがどうかちゃんとした質量を持って世の中を構成してほしいという書道家の願いであり、祈りである。

「言葉なんて役立たずだ」

そう思っていた私の先入観は吹き飛んで、”言葉”に込められたしなやかな強さを筆に見た。

それにしても日本語というのはよく出来ている。この時書かれたのは漢字だったが、ひらがなにしたって漢字にしたって、そこには「止め」「はね」「はらい」という技巧があり、文字としての”言葉”を作った人間の作為性がある。そうした技巧を強く残して文字を書く書道家の所作は、”言葉”の中に川のような流れを作り、”含み”を生む。”言葉”は単なる記号ではなく、人間によって創り出された余白を持った概念であって、”言葉”を上っ面の”言葉”として捉えるべからずという戒めのようなものがある気がする。

骨組みという意味だけ見れば、左右反転したって文字としての体を為す「日」や「本」という字も、筆の入れ方や書き順も含めた”技巧”を要するという点において、文字は左右非対称になり、ひっくり返して読むことはできない。普段口にして使っている”言葉”を、書道家が腕という身体性、さらには精神と一体化した筆でもって目に見える形にすることによって、「”言葉”と真っ向から向き合え」ということを問い直された気がした。

先ほどの”優しさ”の話に戻る。年配者に席を譲ることが”優しさ”か、譲らないことが”優しさ”か。ひっくり返したり、逆さまにしてみたりしながら”優しさ”を考えても、そこに本質的な意味はない。人間が”優しさ”という言葉に込めた祈りに正面から向き合った時、”優しさ”という言葉にはどちらも内包してくれるだけの寛大さは持ち合わせているということに気づく。それほどしなやかで強いものだからだ。

そして、一歩引いて世界を見つめ直すと、最初に電車に乗り込んで「ラッキー」と心の中で呟きながら席につけた幸運の影には、もしかしたら急いで乗り込んだあなたの表情を察して、席を譲ってくれた人がいるのかもしれない。誰にも悟られずに、あたかも偶然席が空いたかのような様相を装って。

自分の目には見えていない誰かの”優しさ”に目を向けれた瞬間が、人が”優しさ”という言葉に込めた願いが届いた瞬間であるような気がする。

#書道家 #書道 #言葉は祈り #活字注意

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