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会話って共同作品だと思う

日常的に行なっている“会話“というのは、当たり前に見えて実はかなり高度な行為だ。相手が発したキーワードや文脈から、自分の頭に連想された話題を振る。単に連想ゲームのように繋いでいくだけでなく、相手の感情とか共通する前提とか、いろんなことを鑑みた上で発する言葉を選ぶことも求められる。

何度も線を引いてスケッチするように言葉を羅列した結果、話の輪郭が曖昧になったり。伝えたいことを正確に言葉にしようとするがあまり、沈黙が生まれてしまったり。その沈黙は会話の“間”なのか。それとも途切れてしまったのか。途切れないように丁寧かつ熱を持って紡がれた会話は、そのものが大きな鎖のようで、相手との共同作品のようである。

話題が飛び火ばかりして焼け焦げだらけの会話ができてしまう時もあれば、
ごくごくたまに話題が自然に移行し続けて分厚くて繊細なグラデーションを描く会話ができる時もある。テンポを合わせたり、声のトーンやボリュームをいじったり、速度と抽象度のギアを調節したり。さらにはアイコンタクトや表情みたいなノンバーバルな動きでさえも、その構成要素である。

大人数で話していると、「今この人は話そうとしたことが言えなかったな」とか「何か言おうとしたけど呑み込んんだな」とか気にしなくていいことに気づく。人が語る“物語-Story-“は血の通った生き物で、乱暴に切断すればその“物語“は死んでしまうもんなんだと思う。ぼくらは会話の中で何度も小さな葬式に立ち会いながら、犠牲を最小限に留め、できるだけ物語が死なないように、“聞く“と”話す“のバランスを取る。お互いにイニシアチブを譲り合い、取り合いながら、ぼくたちは毎日のように作品を作っている。

美しい会話ができる人に憧れますよね。こんなことを考えているくらいだから、僕はまだまだ会話が下手くそなわけなんだけれど。

今日も読んでくれてありがとうございます。いい漫才とかいいsitcomは洗練された会話の究極系なのかなと思ったり。

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