見出し画像

撮る。いつか思い出せるように。

なんで思い出って鮮明に覚えていられないんだろう。
どんなに記憶に刻みたいと思っても、その瞬間の解像度を保てない。

過ぎ去ってしまった光景は、頭の中で回想することしかできなくて、脳内で感じ取ったあの色彩、あの空気、あの匂いは、こぼれ落ちるように記憶の深淵に潜り込む。

今この瞬間はその時にしか味わえない。そうとは分かっていても、どうしても残しておきたい景色がある。

そんな状況に立った時、僕はカメラを置くか…構えるか…迷う。

未来の自分にいずれ過去になる”今”をプレゼントするか。
今この瞬間にしかない”今”を眼球に焼き付けておくのか。
そんなトレードオフな両者をいつも天秤にかけている。

あらゆる情報が飛び込んでくる日常の中で、自分の海馬が正確に大切な記憶を取捨選択出来るのだろうか。 そうした不安が時々カメラを切る。

結局のところ、写真は記憶の中の景色によく似た、それでいて全く別の、いわば造り物でしかない。

できることなら、あの匂いも、あの空気も、全部まとめて閉じ込めておきたいのに。

写真それ自体は思い出ではない。写真の向こう側にある思い出に向かう扉だ。 シャッターを切ったあの時の自分が抱いた感情をこじ開ける鍵だ。

ローマ帝国の哲学者セネカは言った。

“過去とは私たちが持つ時間のうち、唯一運命に支配されない神聖な時間である。過ぎ去った時間とは私たちが永遠に所有している財産なのだ。過去はその全てが自分の所有物となる。 そして好きな時に好きな量を取り出して、それをじっくり眺めることができる。”

記憶の研究をする神経科学者ドナ・ローズ・アディスは言った。

“過去を回想する時と未来を想像する時、人間は脳の中のほとんど同じ回路を使っている。過去の記憶を失ったものにとって、未来とは空っぽの部屋で椅子を探すようなものである。 人間は過去の記憶と、未来に対する想像を織り上げながら、自我を築いていくのだ。“

たまに取り出し、ゆっくり愛でていられるように。
たまに取り出し、未来に想いを馳せれるように。
僕は思い出を遺したいと思う。

------------------------------------------------------------------------

今日も読んでくれてありがとうございます。思い出を脳味噌に刻み込んでおく為に、サブリミナル的に撮りためた写真を撮りためる【追憶シリーズ】はじめました。


この記事が参加している募集

カメラのたのしみ方

よろしければサポートお願いします。いただいたサポート費はクリエイターとしての活動費に使わせていただきます。