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台湾「二二八事件」と画家の芸術的な表現

二二八事件は何?

1947年に発生した一連の二二八事件 は、単なる知られた引き金「天馬茶房前でのタバコ捜査」だけでなく、当時の人々の民生物資の不足や政府の汚職などへの不満が極限に達していたことを示しています。愛国の知識人たちは政府との政治的交渉を通じて意思疎通しようとする複数の協会を設立しましたが、これが権威に挑戦する反逆者と見なされ、共産党員として見なされ、政府が武力で鎮圧を正当化するための手段にされました。この一連の犠牲者と死傷事件は、台湾社会に消せない傷を残しました。

この事件の背景を詳しく知りたかったら、こちらのビデオをご覧ください!

その後の戒厳令もまた、この歴史を忘れさせるための最善の手段でした。文芸界では、作家たちは見えない枷となり、暗闇と恐怖の中に身を置き、誰かが密かに絵を描き、誰かが引退を選び、誰かが海外に移住し、誰かが微妙な言葉で悲しみを記録しました。これらの作品は、台湾が民主化した後にようやく徐々に見られるようになりました。


二二八事件に、画家たちの芸術的な表現


有名な画家陳澄波は1895年に台湾の嘉義で生まれ、当時「画都」と呼ばれた町で生活していました。

昭和13年 (1938) 10月20日台湾新聞《台灣日日新報》に載せてたタイトルは「嘉義は畫都 入選者二割を占む」、嘉義の画家は台湾美術展覧会(台展)で入選した人が多いのを表現されています。

彼は日本の帝国美術展覧会(帝展)の西洋画部門に入選した台湾初の画家であり、彼の絵画〈嘉義の町はづれ〉は南国の故郷を人々に見せるために描かれました。


陳澄波,1926年,帝国美術展覧会第七回に入選した作品の〈嘉義の町はづれ〉。原作はどこにあるのか現在までも不明ですが、ただ帝国美術展覧会の図録に載せてた写真だけ見えます。写真出典:陳澄波文化基金會。

日本太平洋戦争の敗戦後、日本が台湾から去り、「光復」を望む台湾の人々は、さらには「国民政府歓迎準備会」を結成して対岸の同胞を迎え入れました。陳澄波は1946年に台湾省嘉義市の初代市議員として地方行政を勤めて、1947年に二二八事件が発生し、市議員としての陳澄波は民衆を代表して水上空港に行き、陸軍と交渉したかったが、不幸に拘束され、政府の威嚇のための道具にされて、市内で巡られました。最後に、1947年3月25日に嘉義駅前で公開銃殺されました。
皮肉なことに、その日はちょうど中華民国の美術節の日でした。優秀な画家がこのような形で亡くなったのは台湾人の不幸です。

「光復」とは、日本語で解釈すると、「解放」か「復興」の意味です。「光復」は解放、占領の解除、または独立の回復を指します。台湾の歴史においては、通常、中華民国政府が1945年に日本の支配を終了し、台湾が自由な地位を取り戻したプロセスを指します。しかし、本当の「光復」かどうか、歴史見ると、それか、今台湾の状態を見ると、まだ確定で話せないですね。

陳澄波と同じ町出身の歐陽文も、若い頃に陳澄波が公園で絵を描いているのを見て、美術を学ぶきっかけを得ました。事件の後、歐陽文は注目を避けるために故郷を離れ、台南の永福小学校で教鞭を執りましたが、1950年5月31日に「教員楊熙文が共産党に加入した事件」に関与したとして、歐陽文は「思想犯」として緑島監獄に投獄されました。解嚴後、ようやく釈放されました。12年にわたる監獄生活は、緑島の資料が一部公開されるきっかけとなりました。歐陽文の絵画や書法などの専門知識が、反共文学の時代に多くの作品を残し、蔣経国の緑島視察の随行カメラマンに任命され、リスクを冒して火燒島(緑島)の光景を撮影しました。解嚴後、これらの写真はどんどん公開されました。

戒厳令は非常事態で一定の地域で法律停止し軍事力で秩序維持する法的措置。戒厳令では軍隊が警察権を持ち市民行動制限、報道・言論自由も制限されることも。また解厳というのは、戒厳令を解除することです。

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歐陽文、1994年、〈血染めの駅広場〉二二八事件の当日の嘉義駅の光景を描いた作品。

同じく二二八事件を描いた作品には、黃榮燦の〈恐怖の検査〉があります。

黃榮燦,1947年,〈恐怖の検査〉。軍人が誤って民衆を殺害する様子や、婦人が地面に跪いて命乞いをするのを描いた作品。この作品は上海の《文匯報》で発表され、現在は神奈川県立近代美術館に所蔵されています。

黃榮燦は1945年に中国で教職試験を受けて台湾に来た版画家です。事件発生時には《人民導報》の編集者を務めていました。彼は情報を集めた後、この木版画を製作し、上海の「文匯報」に密かに送りました。彼は「力軍」と署名されていましたが、絵の中にはサインはなく、幸運に政治的干渉を回避することができました。しかし、彼は1951年に軍警に逮捕され、その理由は共産党員の吳乃光を匿ったことでした。最終的に、1952年11月19日に馬場町で銃殺されました。

目を覆いたくなるような惨状は多くの絵画に残されており、例えば、通常はロマンティックな画風で知られる台南の西洋画家許武勇の〈急げ、お母さんがこっちにおる!〉、蘇振明の〈陳澄波の死〉とか下にご鑑賞ください。

許武勇、1981、〈急げ、お母さんがこっちにおる!〉
蘇振明、1999、〈陳澄波の死〉

また、その後の画家李石樵の〈大将軍〉、〈田家楽〉、〈市場口〉などの作品では、独裁者の恐ろしい顔、農家の無力な状況、戦後の貧富の差の拡大などのが描かれています。

李石樵,1964,〈大將軍〉。独裁者蒋介石の恐ろしい顔を描かれています。
李石樵,1946,〈田家樂〉。戦後の農家が飢饉に直面し、無力感に打ちのめされるのを描かれています。
李石樵,1946,〈市場口〉。絵の中でモダンな服装の女性がおしゃれなバッグを持っており、隣の庶民と対照をなしています。



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