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「とほ宿」への長い道 その3

1991年夏、北海道へ自転車旅

関西学院大学体育会ワンダーフォーゲル部で、山登りと信州戸隠の山小屋に入り浸る日々が続いた。

1990年、北アルプス乗鞍岳をバックに

春に新人錬成合宿、夏は日本アルプスを9日間程度かけて縦走し、11月の下旬には立山・雷鳥平で雪上訓練、年末に雪山を縦走。3月にもう一度縦走し、その後一年の集大成となる春合宿を10日程度かけて行うという流れだ。
部の公式な合宿だけでなく、部員が企画する「パート・ワンデリング」という有志での山行も行った。
ただ「ワンダーフォーゲル部」というのは、これをやらなければならないという定義は無かった。主に山登りだが、甲南大学などはカヌー合宿もやっていたし、関西学院大学の先輩たちは1986年3月(だったと思う)に、稚内と網走からそれぞれ山スキーを履いてオホーツク沿岸を歩き、中間地点(興部だったと思う)で合流してゴールするという合宿を行い「山と渓谷」誌にも掲載されたことがある。
自分としては、学生で時間のあるうちに憧れの北海道に思う存分行っておきたいという気持ちがあったので、1991年、3年生の時に北海道を自転車で周遊するパート・ワンデリングを企画した。1年生が4人一緒に来た。
まずJR大阪駅に集合、舞鶴まで行き23時ごろ新日本海フェリーに乗る。翌日は1日船の中でゴロゴロし、翌々日の朝4時過ぎに小樽港に到着。
JR小樽駅からは「青春18きっぷ」を使い、札幌→旭川→富良野→帯広と乗り継ぎ池田駅まで。そこから今は無き「ちほく高原鉄道ふるさと銀河線」で松山千春の故郷である足寄まで着いた時には17時になっていた。普通電車乗り継ぎとは言え北海道は広い。
そこから自転車に乗り、オンネトー→雌阿寒岳登山→阿寒湖→摩周湖→屈斜路湖→斜里岳登山→知床峠→尾岱沼→霧多布→釧路 と道東を回った。
自転車ではあったが、当時はオートバイ乗りが多く旅していて、すれ違う時や追い抜かれる時におたがいピースサインを出した。阿寒湖や斜里岳の山小屋には、如何にも「アイヌ」な彫りの深い顔立ちのおじさんがいた。スーパーでシャケが1匹1000円くらいの超破格値で売られていた。道中殆どがキャンプ場だったが、時折キツネが近寄ってきたりした。北海道といえば雄大な景色、を思い浮かべていたが、むしろそれ以外の部分で本州との違いを実感した。釧路でゴールした後、単身で北海道大学のキャンパスまで行き、交流のあった山スキー部を訪れた。みんな底抜けにイイ人たちだった。

自転車で旅して回る


若くてカネの無い旅人が集った「ライダーハウス」

この旅の中で、1泊だけ「ライダーハウス」なる宿泊施設に泊まった。1泊500円だったと思う。絨毯敷きの部屋の中でシェラフを敷いて寝たのだが、それでも凄い贅沢をした気分だった。翌年も自転車で道北に行ったのだが、ある程度下調べをして半分くらいはライダーハウスに泊まった。
ライダーハウスとは・・・1990年代当時、北海道には多くのライダーが旅していて、彼らのために自治体や地域の住人の人たちが用意した宿泊所で、1泊500円から1000円程度、場合によっては無料で泊めてくれるところもあった。
「ライダーハウス」ではあるが、オートバイに乗っていないと泊まれないというわけではなく、自分のような自転車乗りもいたし、徒歩で道内を回っているという人もたまにいた。当時はライダー向けのガイドブックが出版されていてライダーハウスの場所や値段が書いてあった。

翌年は事前に情報収集して、ライダーハウスに何泊もした。小樽→稚内→クッチャロ湖→豊富→日本海オロロンライン→留萌→美瑛と回ったのだが、留萌のライダーハウスでの写真が1枚だけ残っていた。

「みつばちハウス留萌ARF」にて

9月であったがライダーや、この町でアルバイトしながら生活している若者たちがいて、夜は近所のイトーヨーカドーで買った半額総菜をツマミに宴会をした。お互い旅の話とか身の上話をして夜が更けた。
この翌年から会社勤めをしたのだが、毎日会社と職場を往復し上司から叱責される毎日の中、その時のことを何度も何度も思い出した。見知らぬ旅人たちとの時間。金は無くとも心は錦。屋根があって畳か絨毯があれば上等。雑魚寝でもテントの中に比べれば広々としているし、野宿や駅(平成のはじめの頃は駅で寝ることが黙認されていて、松本駅や富山駅ではシーズンになるとどこかの山岳部ワンゲル部が寝ていた)に比べれば快適そのもの。当時はインターネットなるものは影も形も無かったので、こうやって毎日毎日違う人間がやってきて杯を交わす生活に憧れた。
なお、この「ライダーハウス留萌ARF」は、とっくに潰れたものかと思っていたが、どうやら今でも存続しているらしい。

北海道を旅するライダーの大部分は本州から来る。高速道路を自走するにせよ、フェリーを使うにせよ北海道に行くだけで結構な金がかかる。そして最低一週間は北海道に滞在する人が多い。宿泊料はできる限り抑えたいだろう。また、天気が悪い日はバイクに乗らず宿でのんびりしたい人も多いので、事前予約不要な施設を使ったほうが楽しめる。予定調和ではなくその日その日の気分と状況で臨機応変にやりたいことを決める自由な旅。ガイドブックではなくライダーハウスで会った人たちと地元の穴場スポット情報を交換し合い行先を決める。ライダーにとっては非常にありがたい宿だったと思う。

思い出のライダーハウス

この時のことが忘れられず、社会人になっても夏になると自転車旅に出てライダーハウスにも泊まった。いくつか紹介したい。

■北海道ライダー&チャリダー共和国(紋別)
1994年9月、名寄から下川町を経て興部でオホーツク海に出て、そこから紋別に行く途中、このライダーハウスの看板が何個も何個もあった。
食堂も兼ねたフツーの一軒家。かなり有名だったようで9月にもかかわらず10人くらい来ていた。夜は700円で食事を提供していた。餃子とホッケの開だったが、今でも覚えている。残念ながら2017年に閉館したようだ。

■モーラップ樽前荘
支笏湖畔のライダーハウス。千歳市が1952年に開設したというからかなり老舗といえる。(そのころはライダーハウスという呼称ではなかったと思うが)。1996年9月の時点では古びた土産物屋を宿泊所にしているという感じだった。屋外でジンギスカンをやったのを覚えている。昨年秋に廃止が決まったが、その後地元の経営者が買い取り、来月(2024年5月)に再オープンするようだ。

前のように1泊500円、とはいかないようだが・・・仕方がないと思う。

■新冠駅近くの客車ライダーハウス
前述の「樽前荘」の翌日に泊まったのが旧国鉄の客車を改造したライダーハウス。当時は廃バスとか廃客車を改造し絨毯を敷いたライダーハウスがあちこちにあった。鈍い光の灯りの下、まるで夜行列車の中で過ごしているようだった。
オーナーさんは普通の商店主の人だったが、室内に「イクラ丼あります」の張り紙があり、1000円くらいだったと思うがびっくりするくらい盛ってくれた。
海沿いに馬牧場が多く、自転車で走っていて並走されたりした。この日もう一人の宿泊者は本州から馬牧場への就活に来ていて、この日仕事が決まったということでささやかに祝杯を交わした。今彼はどうしているのだろうか。

夜、祝杯を交わした

ライダーハウスに、旅の原点を見る思いがした

北海道は「試される大地」と称して久しいが(というか、村上春樹の「羊をめぐる冒険」で主人公「僕」が北海道を旅した1978年秋の時点で既に衰退が描かれていた)、500円とか場合によっては無料で旅人を泊めるというのはビジネスとしては全く意味を為していない。完全なボランティアだ。自分としては、ライダーハウスを運営している人たちというのは、5つ星ホテルのオーナーよりも豊かな精神の持ち主だと思う。
というか、「日本むかし話」に出てくるように、近世まで「旅」というのはこういうものなのだったのかもしれない。旅人が一夜の宿を求めてふつうの民家に泊めてもらう。そこで諸国を回っていた話をする。そのままその土地に住み着く人もいる。徳川家康の祖先・松平親氏もそのような旅人だったと言われている。

事前にきっちりした計画を立て、どこで何をするのかも決まっている「旅行」ではなく、その土地その土地での出会いを楽しむ「旅」。楽しむだけでなく人生そのものについても考えさせられる。北海道は全国ブランド調査で毎回上位に来るのだが、美しい景色や美味しい食べものだけでなく、このような要素の積み重ねがあってのことだと思う。
そんなわけでライダーハウスとキャンプ場を巡る旅をしたのだが、ライダーハウスで歓談する中で「とほ宿」という言葉が頻繁に出てきた。
(つづく)

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