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小説を書いたら色々と学べた話

最近思い立って小説を書いてみた。
小さな新人賞に応募しようとしている。
小説を書くことは本当に本当に難しかった。人より多少は文章力があると思っていたんだけど、その自信が打ち砕かれた。

まず情景描写が全くうまくできない。
周りには何があってどんな様子でどんな雰囲気で、と頭では映像がイメージできても、それを文字にするための回路が頭にできてないので、自分の書く文章はどうも淡泊だったり無味乾燥だったりして、イメージの風景とはどうもリンクしてこない。

そんなペラペラな舞台の上で物語が展開されていくので、どこまで書いても、なんだかお遊戯会とか文化祭レベルの、感情移入もへったくれもない話がずっと続いて、ドラマや情感が生まれない。

心理描写も難しい。
心の揺れ動きなんぞどう表せばいいってんだ。これも情景描写と同じで、イメージはできるけど文にできない。やけに難しい言葉や言い回しを多用したり、冗漫になったり説明くさくなったりする。

そういった感じで書いているうちに、自分の文章力の限界もさることながら、小説を書く上で大切なのは文章力じゃないことに気づき始める。
もちろん最低限の文章力は必須。
そのうえで構成、テーマ、キャラクター設定、舞台設定など、文章を書く前段階の重要性を知ることができたのは収穫だった。

最初、「こんな感じの話で、こんなラストにするか」くらいの、なんともボヤっとした状態で物語を書き始めたせいで何が起きたかというと、序盤の世界感を書き終わったあたりで書く手が止まってしまった。

設計図がないから、組み立てている途中でどうすればいいかわからなくなり、立ち止まってしまう状態だったのだろう。
それでも騙し騙し書く手を進めるが、やっぱりそんな状態だから楽しくないし、だんだん嫌になってくる。

だからもう一度立ち返り、恥をしのんで(別に恥じゃない)小説の書き方などの書籍を購入して読んだ。
そこにはやはり設定の大切さが説かれていたので、黙ってキャラクター設定からやり直してみる。

身長、体重、血液型から、どんな趣味で、両親はどんな職業で、友達はどんなで、といった感じで。
それに続いて舞台の設定も掘り下げる。
舞台が日本なら、どの地方の、どの県で、どの規模の市町村で、人口は何人、名産は何で、とか。

それがあるのとないのとでは本当に、物語の厚みとか、展開と発想のしやすさが見違えるように変わった。
ああ、自分は小説を書くということの初歩の初歩すらわかってなかったんだなと痛感する。

小説書こうとする人あるある、「本気出せば、自分は素晴らしい小説が書けるだろうな」と、やっぱりなぜか思っていた。
でもこれが現実。

できあがった物語は、まあ最低限見れなくはない文章で、一応形におさめました。程度のものとなった。お遊戯会レベルから、多分趣味の弱小劇団レベルくらいにはなった。

でも、書いて良かったと思う。
小説を書く前に思っていた「人より文章力がある」ということは、おそらく全面的に間違ってたわけじゃなかった。
書きあがった自分の小説を見てみると、部分的には光る表現ができているところもあった。

今回小説を書いて改めて感じたが、おそらく俺は、「文を書くことに抵抗がない」という、物書きにとって最低限の資質は持っている。
これが、「書かなきゃいられない」という文の鬼になるまでには時間がかかるかもしれないが、トレーニング次第でそうなれる可能性を自分に見た。

今までも思い立っては物語を書いたことがあったが、今回初めて、ちゃんと「小説を書く」ということが出来た気がする。
そのうえで、小説を書くことは楽しかった。そう思えたことが最大の幸運。

これまでなんとなく小説を書くことに挑戦しては、もういいや、となったり、こんなもんだろ、とお遊戯会レベルのものに落ち着けたり、それなりの挑戦にしてしまっていた。
自分の書く小説がそんなもんなわけない、という謎の自信から、それらを踏まえて今回は小説の書き方や脚本の書き方など、一から勉強して書いてみたので、わかりやすく出来映えも上がった。

魂を込めること

クソ初心者ながら今回確信したことがある。

文章力や構成力など技術云々を気にする前に、創作初心者にとって絶対的にもっとも大切なことは『魂を込めること』一択。

というか初心者にできることはそれ以外ない。
技術がついてくるのはそのあとで、もはや文章は下手くそでもいいから魂だけは込もってなきゃ、自分自身の創作意欲に対して失礼だ。

気迫や思い入れなど、本気で向き合った感情は、明らかに文章に出る。
自分は今まで、何かに「魂を込めて取り組む」という経験をしたことが無かった。

それに気づいたときは愕然とした。
30数年生きててマジかお前と恥ずかしく思うと同時に、自分という人間に対して持っていた違和感や煮え切らなさの正体の一つはこれだったんだとわかって、なんかスッキリした。

途中でそのことに気づいてからは、意識して「魂を込めてみよう」と思って小説を書いてみた。
そのせいかわからないけど、校正していくうちに普段自分の書く文のクセみたいなものがだんだん削がれ落ちていき、書いたことのないような、自分のものじゃないような文体に生まれ変わっていったりと、不思議な感覚を覚えた。

それが良いものに出来上がったかどうか、と言われると、正直まだまだだと思う。
でも少なくとも今できる精一杯で書いて魂の欠片くらいは込められたし、第一稿、第二稿と校正しながら文章を生まれ変わらせていく楽しさを知ることも出来た。
あと、初めて思い入れのある作品になった。

なんとなく薄ぼんやりと、「魂を込める」ことを極めた先に、「魂が宿る」という状態があるんじゃないかと思っている。「込める」という能動から、「宿る」という魂側が自然にこちらへ来る状態へ。

先日、某新人賞を受賞した人の小説の冒頭を読んでみたら、文章力も当然俺とは段違いだが、文から感じる気迫はさらに別次元の領域だった。

「本気出せば俺も書けるだろう」とか思っていた自分を殴りたい。そこには積み上げた練度の上にのみ成り立つ凄みがあった。

最近小説を読むと、これまではフーン、と何気なく呼んでいた地の文のひとつひとつの綺麗さや成り立ちに感動しては、自分の筆力と比較して絶望したりする。
作家のすごさに気づけるようになったという点では、ある意味ではこれも成長で、収穫か。

だから、「書いてみたいな」と思っている人は書いたほうがいい。絶対に。
信じられない駄作に仕上がろうとも、魂を込めようとした創作はきっと何かにつながるし、必ず何かを得られる。

たかが一作品書き上げたくらいで「小説を書くとは」とか語り始める恥知らずさをどうかご容赦ください。
これからも小説を書いていきたいし、うぬぼれかもしれないけど、自分の書く小説に魂を宿らせることを目標に進んでいきたいし、これを読んで何かを感じ取ってくれる人が一人でもいたらうれしい。


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