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序章 ヒヤリ体験⑶


スイデンは、畑からの帰りに、坂道の下の所で右側の家の玄関に車を突っ込んでしまったのだ。
慎重に車がすれ違う道幅である。
上がって来た対向車のドライバーは、ずっと手前で左に寄って待っていた。スイデンは、空けてくれた所に向かわず右の方に行ってしまった。対向車のドライバーは、気の毒そうに言った。
「ブレーキとアクセルを踏み間違えたとしか言いようがない」

車の前の部分は大破したが、スイデンは、無事に運転席から脱出した。
突っ込んだ家の主は、畑友達で、自宅の破損よりスイデンの体を心配した。

事故処理は時間がかかった。
クレーン車が来て、事故車を引き出すことになった。
日没後の暗闇の中で、ライトを照らしながらの作業が続いた。
午後9時過ぎにやっと作業が終わった。
イチョウとスイデンは、2人して、暗い道端に立ち事故処理を見守り続けた。
スイデンの車は、廃車になった。
車が突っ込んだ家は、玄関と車庫の柱が破損していた。
スイデンは、黙々と事後処理をした。

スイデンの体は何ともなかった。
イチョウは、スイデンに運転免許の返納を提案した。
(もう、何事もなければいいが……)
イチョウは、長い溜め息をついた。

事故処理が落着した時、ふと、イチョウは、スイデンが何本もの杖を用意していることを不思議に思った。
「たくさん杖を持っているネ」と、訊いたところ、
「大分前に、畑で、足をひねったことがあってね。大したことはなかったんだが、その時、杖を購入して、しばらく使っていたんだよ」
イチョウは全く知らなかった。

スイデンが2本目の杖を購入することになったのはショッピングセンターでの、ちょっとした出来事が、きっかけであった。
「運転席から降りたら、そこから足が1歩も出ないんだ。何で足が前に動かないのか、訳が分らず、立ったまま途方に暮れたよ。でも、すぐに歩き出すことが出来たね」

それをきっかけに、スイデンは、杖を捜し始めた。
「百貨店には、いい杖が揃っていたから、立ち寄る度に杖を買ってしまったね。残念ながら、一番上等の杖は、行方不明にしてしまったよ。どこかに置き忘れたらしく、捜したけどみつからなかったね」
結局、スイデンの杖は今、3本が手元にある。
スイデンは、頑健な体格で、病知らず、である。
趣味活動と畑仕事にいそしみ、一時たりともじっとしていない。
(元気印のスイデンさんもいつのまにか杖が要るようになっていたのね……)

(そういえば……)と、イチョウは思い出した。
イチョウは、60代後半ぐらいから、電動自転車で買い物に出かけていたが、米5㎏を購入すると嵩張るし重い。そこで、スイデンに、車を出したついでの時、米を買ってきて欲しいと頼んでいた。
その5㎏の米が、いつのまにか2㎏になっていた。スイデンは、5㎏の米と自分の買い物とを、駐車場の車まで運ぶことが重荷になっていたのだ。

 それでもイチョウは、スイデンの身に起こった変化を、軽く考えて、忘れるともなく忘れていった。
ところがしばらくして、スデンの身に立て続けにアクシデントが出現した。
まず、地区の運動会で、スイデンは運動場の真ん中で立ち尽くした。
入場行進中、突然、足が前に出なくなったのである。
スイデンは、しばらく立ち尽くした後、係の人に守られて輪を外れた。

次は、道路を歩いている時、突然、足が出なくなって立ち尽くした。
「なに、ちょっと休憩すれば、歩けるようになる」
スイデンは問題にしていない。
イチョウは、
「診て貰ったら」と、病院行きを勧めた。
スイデンは、案外素直に近くのKK病院に行った。
「脊柱管狭窄症の疑い」という診断名を貰い、たくさんの内服薬を抱えて
帰って来た。
イチョウとスイデンは、2人して老いに向き合うことになった。

 イチョウは、老人ホーム探しを、取りあえず石川県からと考えたが、ついのすみかを、この地に決めていいのか、という疑問にぶつかった。
石川県に、親戚や友人はいない。
2人とも、いわゆるデラシネである。
スイデンは10年間、石川県で単身赴任の暮らしをしていた。
60歳になった誕生月に、最終任地の石川県で、定年を迎えた。
その翌年の3月、イチョウが、大阪の地で定年となった。
イチョウは定年後、スイデンの住む石川県に移り住んだ。

老人ホーム探しに、スイデンは、まるで関心を示さない。
「このまま石川県に暮らしますか?」と、水を向けると、
「オレは、東京へは行かない」
と、質問と少し違う返事をした。
東京で世帯を持った娘・英子がいる。
孫娘もいる。賑やかな交流が期待できるのに、まず、東京に行かないという意思表示である。
ややあって、
「長崎なら、知り合いも多い。行ってもいい」と、ボッツリ。
長崎県はイチョウの故郷である。
スイデンの故郷、熊本県に近い。
さっそく、イチョウは、インターネットで、施設を調べた。
よさそうなケアホームをみつけた。
長崎市内に住む実家の弟が下調べに行き、見学の予約をした。

こうして、スイデンとイチョウは、2人して長崎へ行くことになった。
共に79歳。
イチョウはどこへ行くにも杖が手放せなくなっていた。
老人ホーム探しの話を、娘・英子に伝えると、娘一家も長崎へ行くこととなった。
東京と石川県から、総勢5人が長崎の実家に押しかけることになった。
思えばこれがスイデン夫妻の最後の長崎への旅となった。


次の章、「長崎への旅」では、スイデン夫妻の、最後の旅の模様が語られる。どのような道中が待ち受けていることやら。

→(小説)笈の花かご #5 1章 長崎への旅⑴ へ続く








(小説)笈の花かご #4  序章 ヒヤリ体験⑶
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2023年10月21日#1 連載開始
著:田嶋 静  Tajima Shizuka
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