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【天邪鬼なデザイン思考】光と闇・振れ幅の大きな現代社会の生き方

日々の生活で感じることは両極端な世界の存在。インターネットやスマートフォンに各種のデリバリーサービスや発達したリモート環境などが齎す圧倒的な利便性の一方で、プライバシーや自由が脅かされる監視社会の危険性などちょっと怖い世界も存在し、しかもその両方が同時進行で進化していく現代。とはいえ古来、世界には常に光もあれば闇もある。それは常に表裏一体を成し、そして今やその光の強さ、闇の強さも極大化している。では、こんな対極的に振れ幅の大きな世の中をどう生きていくのがベストなのか。デザイン思考的に考えてみたいと思います。

監視を恐れない透明性

例えば監視社会をどう捉えるか。昨年7月に今の住所に引っ越した際、大きな子供用の電気自動車のオモチャを誰かに使って貰いたいと思い、前に住んでいた集合住宅でよく住民同士が中古品を交換していた共用の物置きに寄付として置いておいたら、なんと翌日、警察が家まで来て「あの~コレ置きました?」と尋ねてきたことがありました(もう住民では無いので置いてはダメなのでした^^;)。物置のカメラが捉えた私のクルマのナンバーから住所が分かったらしく、スゴイものだなぁと感心しました。

特に米国は社会保障番号が早くから導入されており、これに住所や連絡先、経済活動や運転履歴、渡航歴まで全ての履歴が紐づく。確かにこれは、ある意味で高度な監視社会であり少々怖くも感じますが、逆に様々な公益上の問題や犯罪の抑止の視点に立てば、それくらい安心して生活していられるということでもあります。考え方次第で感じ方は真逆になります。また監視されていても問題ないように常に自分の行動に高い透明性を維持し、身辺を身綺麗に晒してさえいれば何も恐れず生きて居られる訳で、そこは結局のところ自分の考え方と態度一つだと思うのです。

妄信することなく利便性だけを賢く頂く

また今やスマートフォンやパソコンに必ず付いているカメラはいつ何時勝手に起動して我々の生活を覗き見しているか分からない。SiriやAlexaやGoogle Homeは常に我々の動静に聞き耳を立てている。あるいはどこかの都市伝説ではZoomを使っている時、特定のキーワードに反応して不具合を起こすなんてことも言われています(真偽は不明ですw )。とはいえ、こうしたカメラやマイクが日常の生活空間に数多く実装され、リモート環境が浸透したからこそ今の利便性がある。

便利な機能やサービスが現れれば悪用しようとする者が一定数出てくるのは避けられない世の常。ですから過度に怖がったりせず、かといってその謳われている信頼性を妄信することもせず、最も利用し甲斐のあるところだけをフルに利用させて貰えば良いのだと思います。これも前述の透明性と似ていますが、見られている前提、聞かれている前提で、それを楽しむくらいの余裕で生活する。テープ貼ったりする人も居ますが私はスマフォやパソコンのカメラに時々思いっきりヘンな顔したりウィンクしたりしてます(笑)。もしかして見ている側の誰かが気持ち悪がってたら面白いじゃないですかw。

アルゴリズムを翻弄するように生きる

また最近は購買履歴から嗜好性を解析して潜在欲求に先回りして推奨するようなサービスが一般化しています。機能としても高度化しており、便利である以上に、自分の興味の対象を拡げてくれる可能性さえあるとすればそれは歓迎して良い機能なのかもしれません。が、私はあまり好みません。こういう機能に馴らされると人間の野性が失われる気がするから。デザイナーというのは元来が“あまのじゃく”ですから薦められた瞬間に欲しくなくなりますw。自分のことを然も知り尽くしたかのように推してくるレコメンドには正直辟易します。

こうした機能やサービスとの付き合い方について、一つの楽しみ方、或いはある種のゲームとして、私はアルゴリズムを翻弄する生き方を心掛けています。例えば何かを選ぶ時、何かを買う時、少しだけ逡巡して逆に振ったり、また戻したりしてみる。今や無意識的で無防備になってしまった自分の購買行動に“意識のワンクッション”を入れてみると自分が本当にそれを欲しいのか?のチェックにもなり、無駄な買い物を回避出来る場合もあります。これでアルゴリズムを翻弄できているとはさすがに思わないですがw、少なくとも便利な機能に馴らされ、利便性にドップリ浸かり切って感受性の一部を損なってさえいる現代生活に、こんなちょっとしたゲーム性を導入してみるのも悪くない気がします。

人間であることを手放さない

思い出すのが、カーナビというものを初めて使った時、その便利さに驚嘆(元々が酷い方向音痴なこともあり…)したと同時に、何か大きなシステム構造の一部に自分が組み込まれてしまったかのような不思議な違和感を感じた経験。PASMOやSUICAも、スマフォのアプリ全般も同様に(そして今、Metaverseなる新たな生活圏まで準備されようとしている)、そこには途方もない利便性がある一方で、何とも言えない薄気味の悪い違和感が付き纏う。無頓着に、手放しで受け入れている人も少なく無いでしょうが、私が感じるこの違和感は自分の「人間であることを手放さない」意志の表れと感じています。

冒頭に書いたように世の中には常に光もあれば闇も必ずある。良いことの裏には悪い兆しもまた必ず同居している。これは避けられない。だとするなら、その事実は事実として受け入れつつ、監視社会に於ける透明性やアルゴリズムを翻弄する生き方のように、絶妙な距離感をキープしながら、一定のリスクを楽しむことさえ厭わずに、ある時は頭脳的(左脳的)に、ある時は野生の勘(右脳的)を働かせながら人間である自分に拘りと誇りと尊厳、そしてユーモアを忘れずに生きていけば、今後、どんな世の中になろうとより幸せ(Happier)に生きていけるのではないでしょうか。

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