見出し画像

水知らずの人



吾吾、人から見れば、水は、容器の中の彼(女)ら(水の事)を仮に川に流すと、其れは其の流れの中に溶け込み、更には大洋に流れ出で、海水として、素の容器の水は完全に分離し、一体の塩水になった、と想わるるであろう。

水にも魂はある、と云ったら、笑う人も多いかもしれぬ。

だが、其の水の魂とは如何なるものと感じられよう。

よく、個個の吾吾自身はミクロコスモス、所謂宇宙はマクロコスモスである、と説かれている。

海(大洋)をグレートマイクロコスモスと定義して、ミクロコスモスたる人と等しいものとして、論を進めていく。

人体=大洋であるなら、容器の中にあった水は現在は右腕の内の誠に小さい細胞である、と想像していただきたい。

容器の水を含んだ川の水は現在、右の二の腕のある部分の細胞群となっている(此れも頭の中のイメージとして想い浮かべていただきたい)。

大洋としての吾吾は、自身こそが生きている主体である、と殆ど感じている。

だが、一個一個の細胞にも、如何やら、主体としての意識もあるらしい。

だから、一個人の自分が生きている、という事は、其れを構成している細胞も魂を携え生きている、事によって成り立っていて、人とは即ち複合体として生を営んでいる、という事の様に想える。

多分、水の視点から、吾吾人を見たら、個個人は容器の中の水の如くであり、長い行列に並んでる人人は川の流れの様で、一國とかの集団としての吾吾は大洋みたいに感じられ、吾吾にとっての一人ひとりは大きな違いが感じられるキャラクターであるが、彼(女)らから見れば、違いなども感じられない、見分けもつかない存在なのではあるまいか。

お気に召しましたら、サポートをお願いいたします🙏 自身と同志・仲間の夢を実現するために使わせていただきます💓 もし、よろしければ、あなたも同志になられません❓ 一緒に楽しく活動して参りましょう✌️