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コンプレックス

かごめは、駅のホームでしんに袖を引っ張られて泣きそうになっている。なぜ涙ぐんでいるのか自分でもよく分からないが、マスクをしていて良かったと、すぐに気を取り直す。

「じゃあまた日曜に。」

そう言って、しんとは反対方向の電車に乗り込む。危なかった。かごめには、意味の分からないところで感情が暴れだす習性がある。これを自覚して自制できるようになったのはつい最近のことだ。でもふとした時にこうやってぶり返してしまうのだから、もう一生直らないのかもしれない。進みだす電車から窓の外を見ると、しんが気弱そうにこちらを振り返っている。小さく手を振ると、振り返した彼は少し笑顔になっていた。

かごめとしんは、かれこれ2年の付き合いになる。しんは元々芸人だった。独特の世界観を持つネタは、一時期ライブシーンでウケて人気も出ていたが、少なからず若さという勢いに乗せられていた一定の人気は、徐々に下がり始めていった。そこで芸人を辞める決意をしたらしい。これはもう3年前の話だ。かごめは芸人だったしんを知らない。その後同じ職場で出会った2人は、飲み会でお互いに映画好きだということが分かり、話が盛り上がった。それから週に1回会う関係になった。

かごめは大学を出てから、電気メーカーの会社に就職し、これまで約13年働いている。彼女は自分のごく普通な、履歴書に書くと見本になるような経歴にコンプレックスを感じている。学生の頃は勉強も運動も人並みにできたし、自分は恵まれているとさえ思っていた。大学生の頃から雲行きが怪しくなるのを感じた。授業の単位さえ取れればよく、一生懸命勉強しなくても、過去問をひたすら覚えれば簡単に卒業できた。その頃から、‟自分には何もないな。”という思いが芽生えた。周りはスポーツに力を入れたり、他大学と一緒になってボランティア活動をしていたり、バンドを組んでライブをしている人もいた。自分の好きなものが分からない。ハタチを超えて、こんな悩みにぶち当たるなんて考えもしなかった。そんな時、小学校から高校まで同じ学校に通った幼馴染のわ子が、映画に詳しかったことを思い出した。早速お勧めの映画を教えてもらい、授業もバイトもない日に観はじめた。最初に観たのはレオンだった。今考えると名作中の名作だが、これが映画にハマるきっかけとなり、徐々に授業があってもバイトがあっても関係なく、夜明けまで観漁った。今では映画館に足繁く通い、洋画・邦画に関わらず、その日の気分で決めた作品でも良いから観るようになっている。映画との出会いは、自分がこんなに何かに夢中になるなんて思っておらず、嬉しい気持ちにさせた。

出会った頃はしんとも映画の話をよくしたが、最近はあまりしていない。しんは大学時代映研に所属していたこともあり、映画を自主製作もしたという過去がある。かごめは、自分よりも映画に詳しいしんの話を、最初は面白可笑しく聞いていたが、徐々に面倒になっていった。自分の知らない作品がたくさんあることは分かっていたが、その中でも自分なりに多くの映画を観て親しんできた。しんがあまり知らないジャンルを観てきていることも自負している。しかし、映研出身の彼に比べたら知識の浅さは明白だった。こういうことを気にする自分が、かごめは嫌いだった。映画なんて好きな人はたくさんいるし、ただの趣味だ。でも、自分がやっと見つけた夢中なものを、それより遥かに知っていて、しかも自主製作までしたことのある人が目の前に現れると、所詮自分はただ観るだけで、少しだけ人より映画に詳しいくらいの人になってしまう。かごめには演出の「え」の字も分からないし、どのように映画は撮り進められていくものなのか、その手順や方法さえも知らない。こんなに観ているのに、知らないのだ。そうなると、自分には何もないのだと思い知らされている気がして、しんと出会ってから苦しむことが多々あった。また、しんが過去に芸人をしていたことも羨ましさを増長させた。しんの芸術的なものに興味を示すだけでなく、自分で何かを作り出そうとする姿は、何も作り出せず、会社に言われるがままに雑務を流れ作業のようにこなしている自分を、否定されている気分になった。

しんは好きなことは話し出すと止まらない一面もあるが、そういったかごめの反応に一早く気つける優しさがあった。かごめの自己否定的な部分を知っているし、それも含めて面白い人だと思っている。だが、自分が好きなジャンルのものを選んで見られるところが映画の良さであるのに、他の人が好きな映画を知らなかっただけで、それを悔しそうにしているかごめのことは理解できなかった。映画なんて自分の好きなものを観ればいいのにと、いつも思っていた。自主製作をしたことをとても羨ましそうにしているが、正直苦労の方が多かった。芸人になった後も映画を撮りたいという気持ちはあったが、結局全てが中途半端となり、生活も立ち行かなくなった。全てが嫌になり、映画を撮りたいという気持ちをごまかすように漫才のネタ作りにもがいている振りをした時期もあり、その時の自分を思うと痛々しかった。そんな日々をすごしたしんにとって、真面目に生きてきたかごめが正しいとすら感じることがある。

しんは、最近かごめの様子がおかしいことにも気付いている。今までもよく行き来していたかごめの家に、今日も映画館に行った流れで行くのだろうと思っていた。しかしかごめは街をぶらつきだし、更にほとんど言葉を発しない。何かしたいのかな、と様子を見ていたが、かごめの足は止まらない。長さで有名なアーケード街を、あてもなく歩き続ける。途中で花を見て「これが可愛い。」なんて言ったり、ワインを見て「美味しそうだね。」と言ったり。この様子自体はいつものことなのだが、心に一線引かれている感じだ。アーケードの端まで行くと、「終わっちゃった。」と引き返している。しんは何を言うでもなく、ただただ後をついて行く。駅が近くなったため、しんは「帰る?」と聞いてみる。こくんと頷いたかごめは、駅のエスカレーターに乗り込んだ。いつもなら「そっち行ってもいい?」と聞くのだが、今日は聞けない雰囲気がある。ホームについてもこちらを見ないかごめに思わず不安になり、彼女のシャツの袖を引っ張ってみる。かごめはこちらを振り返るが、マスクをしているから笑っているのか無表情なのか分からない。言葉が出ずにいると、かごめは目を反らし、電車が来るレールを見つめている。こちらを見ない。「今日は自分の家に帰るね。」そう言うのが精一杯だった。

かごめは家に着くと、しばらくぼんやりしていた。雨が降り出しそうな曇天なので、部屋の中はまだ15時だというのに薄暗い。なぜかいつものように明るく振舞えなかった。疲れていたのか、何かを気にしていたのか。かごめは、このコンプレックスは一生ついて回るのかもしれない、とふと思った。大人になれば直ると思っていた。実際若い頃よりはずっと上手く立ち回れるようになっている気もしている。だが今日はだめだった。しんは何を思っただろうか。2年経った今も、将来の話どころか、この関係性が何なのかもはっきりさせないしんに不満がないと言うと嘘になる。だが結局、根本にあるのは自分の問題なのではないか、とかごめは思う。いつも自分からの決定打を避けている。こんな嫌な一面がある自分を好いてはいるであろうしんと、離れることになったらどうなってしまうのかと思う。その一方で、何も変わらない気もする。とにかく今は疲れていて、1人でいるこの時間が自分をリセットしてくれるのではないかと期待している。生きていくということは、自分にとってはとても難しい。生きていくこと、なんて大袈裟ではなく、ちょっとしたコミュニケーション自体が、もう難しく感じる。全ては最近かなりの頻度でできる、口内炎のせいにしてしまいたい。そんなことを頭の片隅で考えながら、かごめは珈琲を入れてチョコレートをかじった。

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