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誰のための表現?

自分がおかあさんである、ということを歌詞にした歌が話題のようです。
個人的には、当初その歌詞自体には(多少気持ち悪いとは思ったものの)取り立てて意見するほどの感想も持たなかったのですが、情報を捕捉するうちに作詞者が「ママがおばけになっちゃった」の作者であるということを知りました。
数ヶ月前に書店でその絵本を見かけ、タイトルを見た瞬間に「絶対子どもに読ませたくないし、読みたくもない」と思ったあの本でした。

ちなみにそれっきりあらすじすら読んでいないので絵本を批評する権利はわたしには無いのですが、件の件について情報に触れる中で、過去のテレビ番組での作者の発言なども目にし、どうも自身が母親との間に問題を抱えていると語られているようです。

表現が往々にして非常にパーソナルな領域から着想されるという事実をわたしは経験的に知っていますが、一方でそれを何かしらの表現として形にし公に発信すると、突然それが別の誰かにとって暴力的に働く場合がある、ということもまた知っています。
極個人的な体験を別の何かに読み替えて普遍的に物語る手法それ自体はよくあるものでしょうが、その時はまた一方にあるその暴力性を強く意識する必要があるはずです。

特に商業作品として広く世に流通する表現が、作者本人の「癒やし」や「赦し」のためだけに存在して良いはずがありません。(子どもを主たる受け手とした作品であれば尚更です)

また、子どもを大人側の理論や「感動」といった情緒の世界に一足飛びに引き込むことも、ある種の暴力であるとわたしは考えています。
死は誰にでも訪れる普遍的な出来事のようでいて、実は非常にパーソナルで個別性の高い経験であると思います。(「人間死ぬときは独りだ」とは言うに及ばず、近しい人の死を経験したことがある人はきっとわかると思います)
全ての子どもが生まれながらに「死」を概念として持たないように、本来子どもはそれから最も遠い存在であって、「ママがおばけになっちゃ」う疑似体験を強制させて良いはずがありませんし、そもそも予めその機会を奪われている子も多くいることくらい少し想像すればわかりそうなものです。

例えば同じように家族と自分の問題を表現にするとしても、(とても成功していると思えないのですが普遍化の対極として)テレンス・マリックの「ツリー・オブ・ライフ」のような向き合いかたの方がまだ誠実であると感じました。

端的に言って、この絵本(繰り返しますが読んではいません、強い防衛本能が働いただけです)や件の歌詞からは、パブリックなスペースに設置されたインスタレーションアートの中で遊んでいた子どもが焼け死ぬような「胸糞の悪さ」を感じています。

果たして表現とはいったい誰のためのものなのでしょうか。

読んでいただきありがとうございます。