赤塚不二夫とつげ義春と寺田ヒロオ

赤塚不二夫さんとつげ義春さんは、デビュー前からの友人ですよ!

つげさんは、プロデビューしてからも毎日、日本酒の一升瓶持って赤塚さんの部屋を訪ねてたくらいの友人。

「描きたい漫画を描くか、売れる漫画を描くか」で喧嘩になり、つげさんは帰るけど、次の日の夕方にはまた一升瓶を持って赤塚さんの部屋に行く。
そしてまた同じことで喧嘩になる。
それの繰り返し。

赤塚さんに「赤本一冊描いたら3万円もらえるぞ」と言って赤塚さんをプロデビューさせたのも、つげ義春さん。

赤塚さんが漫画家を辞める決心をした時最初に話に行ったのがつげ義春さん。
つげさんは「お前は才能があるから絶対やめるな」って引き止めた人。

赤塚さんがトキワ荘に引っ越してから、つげさんは2回トキワ荘を訪れてるけど、それ以降行くのやめたのは、「インテリ」とかじゃなくて、子供みたいなノリでとにかくみんな明るかったから。
母親と弟と妹を養うために漫画を描いていたつげ義春さんは、そのノリに馴染めなかった。
これはつげ義春さんが取材で答えてることだから事実。

子供みたいな赤塚不二夫たちとは対照的に、寺田ヒロオさんに対するつげ義春さんの印象は、「とにかく寡黙な人だった」。

寺田ヒロオさんとつげ義春さんの二人に同時期に取材してた人が、寺田ヒロオさんが亡くなったことを告げると、つげ義春さんは絶句してしばらく言葉が出てこなかったそうだ。

寺田ヒロオさんは漫画家をやめた後、しばらくトキワ荘にいた漫画家たちと交流はなかった。
ある日、寺田さんから安孫子素雄さんに連絡があり、「新漫画党の最初のメンバーとウチで宴会をしたいから、みんなを集めてほしい」と頼まれた。

みんな人気漫画家で多忙だったにも関わらず、その日は奇跡的に一人も欠けることなく集まり、楽しい宴会をした。

翌日、前日のお礼を言うため安孫子が寺田さんの家に電話をしたら、奥さんが出て、「夫はもう誰とも会うつもりがないから、電話には出られない」とのこと。

寺田ヒロオさんは、取材に対して、「若いトキワ荘の後輩たちに劣等感を抱いてた」と話してる。
「『まんが道』に出てくるような、みんなをまとめるリーダーなんかじゃなかった」とも。

それでも、最後に会う人たちを新漫画党のメンバーにしたのは、やっぱり寺田ヒロオさんにとっては、その時代が一番幸せなときだったのかもしれない。

安孫子さんはビデオカメラで、宴会の様子を録画していて、送られてきたビデオテープを寺田さんは楽しそうに何度も見返してたそうだ。

その後は、庭の小さな小屋に移り、家族との交流も絶ち、奥さんが作った料理も残す量が日に日に増えていき、最後は衰弱死する。

家族は、あれは「緩やかな自殺」だったと思っている。

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