ギルドとしてのBar・大学論(初稿)

前回の初投稿で、このnoteのさしあたりの目標は、「ギルドとしてのBar」論を完成させることと書きましたが、すでにプロトタイプ的なものはあります。7月21日にTwitterに26連ツイしたものです。以下、こちらにも転載します。
なお、文中に小岩という地名が出てきますが、東京都江戸川区小岩。僕の地元です。ここ一年間、小岩の3つのバーに通いながら、酒場ということについてよく考えさせられ、こういうことを書き綴っているわけです。

昨日の「バー・大学=ギルド論」は、わりかし面白い着想だと思いつつ、酔ったノリのまま書いたので、骨組みだけで分かりにくい部分もあったかと思うので、以下、説明を補強した詳しいバージョン、増補版?を書こうと思います。

まず、ギルドというか「中間団体」ということで整理した方がよいかもしれない。それは、国家と個人の中間にあって、それ自体種々の特権や権利を有しながら、個人を庇護したり圧迫したりした存在。家族、都市、ギルド、教会等々…

フランス革命では、この中間団体は特に忌み嫌われ、国家の敵とされ、ル=シャプリエ法というので労働者の結社禁止、アラルド法でギルド廃止となった。 それで国家と個人は直接対峙し、一方には主権が、他方には人権が配されることとなり、個人は中間集団の庇護を失い裸で国家に直面することになる。

というのが国家vs個人の文脈。あと二つくらいポイントがあって、一つは宗教改革と教会の問題。もう一つは情報革命(かつては印刷、今ならインターネットの問題)。なお二つの問題は重なる。

カトリック教会は、信仰のための制度であり、権威であった。平信徒は、俗語では書かれていない聖書を読むことができず、個人的な聖書解釈は禁止、というか不可能だった。教会を通じて人々は信仰を得た。そういう意味で教会は信仰において中間集団として働いていた。

そこへ印刷術の発明、ルターによる聖書の俗語訳ということで、普通の人にも聖書が読めちゃうようになり、教会は不要になるというか、むしろしがらみのある存在として忌み嫌われるようになる、プロテスタントの発生である。

印刷により、大学も変容を被る。これは昨日書いたこと以上のことはないけれど、大学というインナーサークルに入って、そこで講義を聴いて筆写しなければ得られなかった知識が、印刷物を通じて頒布されると、状況は違ってくる。第一だか第二の「大学の死」というやつである。

というあたりで、現代のバーに話を戻そう。昨日話をした一人は、いま情報があふれ、下調べがいくらでも可能な中で、なんかあるらしいが全然情報がないところに飛び込むか、こんなの偶然見つけちゃった!というようなバーホッピングが楽しめるかという風に問題提起をした。

これに対してはまず、近年のタイパ志向とか、コストを嫌う志向からして、多くの人は渋るのではないかと応じた。よくわからないけど、入っちゃって変だったら、1杯だけで千、二千円払って帰ってくるということがもうできない、「失敗する」ということを受け入れるコストが随分高くなったと。

それで、じゃあどのように情報を仕入れるかということに話は進む。昨日出た話では、おおまかに「街」をベースにするか、インターネットをベースにするかということ。これは店側客側ともに関係するところである。

まず客からすると、ネット検索だけで済ませるか、当該街に潜って、そこの店なり客なりから情報を仕入れるか(ここの次、二軒目にいいお店ないですか?)、その情報に従って行動するか(実際二軒目に行くか)。ピンポイントで店を楽しむのではなく、街のつながりを楽しんでいくか。

店側では、周囲の飲食店と交際をして、チラシなりを置かせてもらうとか、じゃあうちの次の二軒目にということでおたくを紹介するよ!みたいな話になるか。 ネット広告が容易な現在では、特にインフルエンサーが店でも開けば、街に根差さなくても客は来うるわけで(昔は待ってただけでは客は来ない)。

街が中間集団のように機能し、対してGoogle的なものはグローバリゼーションと把握して、中世/近代みたくとらえているところではあるが、いまやGoogleMap載せてないような店はダメ、それに順応していないと店失格とも言われるようだと、Google的なものは新たなギルドなのかもしれないとも思われる。

大学の話に移ると、ググれば何でも情報は出てくる、大学なんて行っても無駄というような話はいくらでも聞くが、たしかに検索をすればお目当ての情報には行き着き得るだろう(検索のスキルにもよるが)。しかし、関連情報にまで行き当たれるというのは人的集まり・物的集合である大学にまだ分がある。

電子辞書より紙の辞書が初学者にはいいという話と一緒で、まず図書館に行って、検索システムで見つけておいた本を取ってくるというだけでなく、書棚を、しかも適切に分類されている書棚を見回すと、自分がいま求めている情報の周辺にある、さらに?有益な情報に行き着く可能性がある。

大学は人の集まりでもあって、分野が近い、いっそ遠い人が集まって、日常的に学問的な話をしていることで、求心的、また遠心的に話が深まっていく。研究者個々人が書斎に籠っているだけではこうはいかず、オンラインミーティングでも、かようなコミュニケーションはどうもうまくいかないと経験された。

バーと大学の話をまとめて整理しよう。僕は過去、いつもながらの連ツイで、具体的な場所としての場の重要性というのをやたらと喧伝してきた。今回は、その場所にはどのようにして人が集まってくるのか、ということが焦点化されたのだと思う。

それは基本的に情報の問題であろう。どこで聞きつけてくるかである。それ自体、具体的な場所性に根差して街に飛び込むか、ヴァーチャルにインターネットで済ませるか。また、SNS時代、具体的な場所に一度集まった人々がどのようにその外で交際し、仲を深めるか、ということも議論できるだろう。

結局のところ、街のコミュニケーションにも、インターネット・SNSのコミュニケーションにも一長一短あり、だから組み合わせれば最強?という話にまずはなろう。 街のフィルターを通した情報は、バイアスの可能性もあるが、確度は、匿名で投稿されるネット情報よりは高いかもしれない。

他方で、ネット情報は、匿名らしい「自由」で、暴露的、街では言えない情報が出ているかもしれない。どちらを(も)知りたいかというのは、利用者の関心にもよるだろう。まずはネット情報で飛び込み、潜ってから街情報へ、という順序もいい。

検索的なピンポイントの知(と交流)か、ローリング的な面での知(と交流)か。お目当ての物さえさらえれば十分という前者の立場も十分にあるだろう。僕なんかはそもそも暇だし、そりゃしたくはないけど、「失敗」のコストを受け入れられる余裕はあるつもりである。

しかし、こと小岩の、という話に限ると、僕が小岩住民だからだということは大きい。結局は小岩の楽しみ方を語っていたわけだが、小岩の外に住んでいる人には終電なりなんなりの問題があって、どっぷりというわけにはいかない。僕だって、他の街で行っているところでは、同じようにはいっていない。

結局はローカルの話。しかし、グローバルな情報展開もあり、どうするか。いっそ両方取り込んで、グローカルで楽しんじゃえ!というのがまあ穏当な結論でしょうか。 とかいうような話を、昨日話をしたBarのバーマンは元世界史教師だし、宗教改革だの印刷革命だのになぞらえての、昨日の「三酔人経綸問答」だったわけです。

で、結局何が「ギルド」なんじゃ、という問題は残る。「バー・大学=ギルド論」とか言いながら。徒弟制ということは、バーテンダーの世界、研究者の世界に共通してそうだけど、正直、今回の話にはあまり関係なさそう。

ギルドの対義語は営業の自由。ギルドに入らなくても、個人が勝手に営業できるという意味での。なので、ギルドなんぞに属さず、ネットとかを介しての自分(たちだけ)のネットワークでバーやるぞ!という営みは、そりゃあもちろんOKなわけで。

ただ、僕は客として、まずは街に根差して、その上で重ねてネットでも遊んでいられるような、そういうところにいたいし、それでバーマンの側もそういう店にしたいよねと応じ、というか、そもそもこういうややこしい話のできる店でいたい、というような話だったと思う。グローカル!(完)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?