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黄金に輝く日の昇る国日本③~実は富士山は双子:縄文時代の本当の姿

縄文時代の富士山は現代では考えられない姿をしていました

写真文章ともchafuka様から引用:詳細データは元サイトを御覧下さい    

 およそ一万数千年前には、山頂の火口が西側に移動し、現在の富士山の頂上となるもう一つの峰を形作り始めました。激しい噴火で急速に標高を増した富士山は、東西に二つの高まりを持つツインピークとなりました。縄文人が見た富士山には二つの頂がありました。
~引用以上~

chafuka様から引用

私の思い込みではない証拠に上記の観光案内の文章等を御紹介しましたが、実は、そうじゃないか?と自分の直感で気が付いたのです。それは何故かと申しますと・・・・以下の文章をご覧ください

【山海経典】
扶桑樹ははるか東方の海の果て、太陽が昇る場所とされた湯谷(ようこく)(陽谷(ようこく))に生えていた。

 ん~?湯谷、湯のところにある谷ねぇ?って思いませんか?そして扶桑木は前回までの記事で、まぎれもなく富士山に有るという事が分かりましたよね?(だから中国では扶山【フーサン】と発音します)扶桑木が生えているから扶山なのではないでしょうか?

【富士山が過去どんな姿ったのか?皆様思い出してみて下さい】
今からおよそ2900年前、東側の古富士山が崩壊。富士山に深い谷間が刻まれました。
そうです!富士山はこうなっています!

chafuka様から引用

【剗海(せのうみ)に眠る謎】

 そして、今富士五湖として有名な湖の数々すが、湖は全て繋がっていて、巨大な海の様な光景が山の麓には繰り広げられ居たのはずです
 富士山は噴火を繰り返して様々に湖の数や形変えて行きました。下のは、解り易くする為に作図しました。以下の様な現象が起きるのは元々一つだったからだとの事です。

水位がいつも同じになる現象が有るので地底部でつながっていると言われています

元々が同じものが溶岩で分けられたからだろう、紫の線で囲った様に
●本栖湖
●西湖
●精進湖
 
この三つはいつも水位が同じなのでどこかで繋がっていると言われています。

【日本有史以前の噴火当時の光景】

 今から5,500年前から始まった新富士火山の激しい噴火活動により山麓に降り注いだ多量の火山灰・火山礫により,宇津湖,明日見湖,旧河口湖のほとんどが埋め尽くされ,最も大きかった剗の湖も,半分程度の大きさになってしまった。 

 今から4,500年前になると,新富士火山の活動は山麓の北西斜面から多量の溶岩流を流し出すものに変化し,流れ出した溶岩流によって,剗の湖はますます小さくなるとともに,最も西側の部分が切り離されて,本栖湖が誕生した。一方旧河口湖のあった地域を水源として,富士吉田市の方向に流れていた太田川がせき止められて,現在の河口湖のもとになる小さな湖がつくられた。

つまり簡単に言ってしまうと。噴火により湖の形や数は刻々と変化したのだが、元は大きな一つの古剗海(こせのうみ)であるということだ。

ただし、
古剗海(こせのうみ)は相当に古すぎるので痕跡が綿密ではなく研究者の研究対象になっていて、はっきりとした形は調査中だそうです。

【噴火中であれば地熱が高いですよね?】

そうつまり当時の富士山は・・・・

あたり一帯がお湯が沸いていて巨大な温泉だったかもしれませんね 

こうなると山海経の話が真実に私は思えてきますが、皆様はどう思われましたか?

【山海経より引用】
世界樹・扶桑(扶桑はかつて日本にあったとされる巨木)の下に住む女神である羲和は、子である「十の太陽たち」を世話している。天を巡ってきてくたびれた太陽を湯谷で洗っては扶桑の枝にかけて干し、輝きを蘇らせるという。
【谷とは?】goo辞書より引用
①たに。たにあい。山と山との間の狭いくぼ地。「谷飲」「渓谷」

つまりツインピークスの間を通る上記図面の通りです!

【歴史の先生もこの様に仰れています】ヤフーニュースより引用
2017/3/28(火) 13:05配信
 富士山周辺に数多くの縄文時の遺跡があることはあまり知られていない。これら遺跡は縄文時代にはすでに富士山一帯に人が住み生活を営んでいたことを示している。こうした遺跡の中でも近年、特に注目度が増している遺跡がある。大鹿窪(おおしかくぼ)遺跡と千居(せんご)遺跡だ。この2つの遺跡には、当時の人たちが富士山を信仰していた痕跡があると専門家は言う。
富士山の南西、富士宮市の山あいに位置する大鹿窪遺跡。付近一帯は畑が広がり、何も知らなければ遺跡も畑と見間違うほどだ。「掘るとポロポロと土器などが出土したため、地元の人たちは昔から、そこが遺跡だとわかっていました」と富士宮市埋蔵文化財センター。本格的な発掘調査が行われたのは平成13(2001)年になってからだった。
 
 調査の結果、国内最古の竪穴住居集落跡や2万点を越える土器・石器類が発見され、1万3千~4千年前の狩猟採集時代、縄文草創期の遺跡であることが明らかになった。遺跡内には、現在は保存のため埋め戻されて見ることはできないが、石が集積している遺構が確認されている。そして目前には山々の峰にそびえる富士山の姿が。

 一方、千居遺跡は大鹿窪遺跡の北、寺院敷地内の私有地に存在する。同遺跡は、紀元2~3千年、縄文中期の遺跡と考えられ、集落跡や多数の土器・石器類が発見されている。千居遺跡で特徴的なのは、イギリス・ストーンヘンジに代表されるストーンサークルと呼ばれる環状の配石遺構が見られることだ。環境考古学が専門の静岡県文化局教授の内山純蔵博士によると、同遺跡からは矢じりなど狩猟道具が目立って出土しているという。当時、村が形成されていた地域とは離れた場所に位置しており、「特定の時期に小さな集団が繰り返し集まってくる特別な場所」とみられている。千居遺跡のストーンサークルはどのような意図や目的で作られたのだろうか? そのヒントとして内山博士が指摘するのが伊勢市の二見興玉神社の夏至祭。毎年6月の夏至の日に伊勢湾に浮かぶ夫婦岩の前で禊ぎを行ない、夫婦岩の真ん中から富士山と重なって昇る太陽を拝む神事だ。 1年で日が最も長い夏至には、大自然の生命力を取り込んで幸せと子孫繁栄を祈願する祭りが今も世界各地で行われている。縄文時代、富士山は現在の姿と異なり、東西に2つの頂上のある双子の山であったという。それが2900年前に東の峰が崩壊して現在の姿になった。  千居遺跡の配石遺構から見て、当時、どの方向から夏至に太陽が昇ったのかを内山博士が調べたところ、まさに当時の富士山の双子の頂の間から日が昇っていたことがわかったという。
「千居遺跡は、富士山の2つの峰の間から夏至を中心とする夏の日の出を臨む最適地を選んで作られたと考えられますと内山博士。千居遺跡は縄文時代の「夏至祭」の場であったのだろうか。  千居遺跡の時代から、さらに遡る縄文草創期の遺跡、大鹿窪遺跡の石の遺構についても内山博士は、千居遺跡のストーンサークルと同じ役割があったとの見方を示している。縄文中期になるとモンスーン気候となり梅雨が生まれ、その結果、6月の夏至に雨が降ることが多くなった。このため、5月末から8月初旬までの幅広い期間に富士山から昇る日の出が見られる場所に移動した、それが千居遺跡ではないかというのだ。 「富士山と太陽は結びついている。それは縄文時代からあった意識なのではないか」と内山博士。「富士山信仰としては富士講や修験道が有名だが、人が山を信仰するということは極めて根源的なこと。長いタイムスパンでとらえ、縄文時代にまで遡って考えていく必要があると思う」と話している
~以上~ 

双子富士山の間から日が昇っていた


そうですつまり・・・・・

【山海経の湯谷の間という表現が大正解だったという事なんです!】

作図たかちほ:【縄文時代の富士山とその景観】

 驚きましたか?でもね・・・・実は私が発見したのはこれだけではないのです。次回はその現地からのレポートになります。

つづく

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