見出し画像

私はいつだって、“リズム”に熱狂していたい

冬なるといつも決まって、この季節にふさわしいと勝手に決めているしっとりしたジャズを聴きたくなる。でも今の気分は、しっとりした音楽ではなく、リズムをもっと感じたいという気持ちになっている。

先日思い立ったように、キューバのCDコンピレーションを引っぱりだしてきてかけてみた。するとこれまでとは違った感覚が蘇ってきた。

なんだろう、このしっくりする感じ。

私は昔から音楽がとても好きだけれど、だからといって何でもいいわけじゃない。

メロディーの美しいもの、声が好みのもの、インストの織り成す妙、いろいろあるけれど私は何といっても、リズムが粒のように弾けて踊っているような、そんなリズム突出型の音楽を愛している。心酔している。といってもいい。

そして私はリズムのなかに入っていくとき、自分と世界とを完全にわけては考えられなくなっている。

それは感覚的に「好き」と思う感情、感覚、という客観性を完全に超えて、音とリズムと一体になる。

そしてそのとき現実世界との架け橋は完全に断たれてしまうのだ。そう。リズムは私にとって、自分の血を強烈に呼び覚ます“記憶装置”のようなもの。


狂おしいほどの切なさ。生きるという悦楽。音にすべてをゆだねる喜び。そして明るい諦観———。


そうしたどこかノスタルジックな原始的な感覚は「好き」という感情を、ゆうに超えている。

それは自分の根源的なルーツを思い起こさせるような、自分そのもの、とでもいうような感覚。今私は確かに“今ここ”に生きているのに、遠い記憶の彼方に、抗えない血の波によって半ば強制的に押し流されるようにして、からだごと、南米の地に一瞬でつながってしまうような感覚なのだ。

私は輪廻転生という考え方を信じているほうだから、自分の前世がどこであったのかという想像は、いつもとても楽しい。そしてその想像のなかで燦々と輝くのが、土着のリズムを持つキューバなのだ。


そしてその遠い記憶は、ふとしたときに今という時間にアクセスし、私をひょいと捕まえる。

囚われの身になった私は、狂ったようにリズムに夢中になる。
ほとんどの肌をむき出しにした格好で、けれどもその一部を大胆で明るさに満ちた模様が大きくプリントされたコットンに巻かれて、きっと踊りの中心になることを熱望するだろう。


人目も憚らず、ただただリズムと一体になることを願い、身も心も沿わせてゆくことで、地球の中心を掌握したような気にでもなって。

私は記憶力が優れているほうではなく、昔、暗記ものの試験勉強にはずいぶんと苦労した。


でも今は、人にはさまざまな記憶の方法があることを知っている。

遠い遠い記憶。
それがどんなに古いものであっても、心に、魂に刻まれたものは決して薄れることはない。
魔法のような記憶装置。
言葉を超えていく、唯一のもの。
崇拝している。

私にとってーー。


私にとってのそれは、“リズム”。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?