原作者と「公式」

※ほぼ全文公開の「投げ銭」記事です。

原作者という言葉のもつ意味は、作品ごとにまったく異なります。名ばかりの原作者もいれば、1から10まで自分の裁量だけで創り上げる原作者もいます。あるいはひとりの作家でも、作品によってまったく違います。

僕の場合でいうと「メタルファイトベイブレード」(以下メタベイ)は原作者と呼ばれつつも、アニメや玩具メーカーの意向を反映した物作りをしてきました。また、「バレエヒーロー・ファンタジー ダンの冒険」(以下ダンの冒険)は僕と原案スタッフがある程度純粋に創り上げた(自分たちの)作品です。作品によってまったくアプローチも、担う責任もずいぶん違います。

しかしそのどちらも心から大切に思う、愛すべき作品です。

今回ここではメタベイの原作者という立場について触れようと思います。また、そこからファンの言う「公式」というものについても考察してみたいと思います。


メタベイは編集、アニメスタッフ、玩具メーカーとほぼ四つ巴の状態で創り上げました。具体例を挙げれば、たとえばキャラクター、僕の発想でつけた名前のキャラもいれば、担当やアニメスタッフがつけた名前のキャラもいます。ビジュアルデザインも僕が起源のものもあれば、アニメからのフィードバックもありました。玩具の順位付けでキャラクターの配置が変わることも珍しくありませんでした。そういう意味で、全てが自分の生み出したモノではないし、まるで「創造主」のように思っている方がいたら、たしかにちょっと違うかもしれません。

しかし見かけ上、僕が原作者という立場にいてその最終的な責任(と名誉)を負う形になっています。そして、現実でも可能な限り漫画が先行し、物語の根幹をできるかぎり僕と担当で責任をもって作り上げました。

また、本筋からは逸れますが、連載中は子供に対して「あたかもすべて僕が考え、作ったように振る舞うこと」を求められました。つまり「あえて創造主であれ」と言われたわけです。例えば僕が「キャラAの苗字が自分、名前は担当がつけました」なんて子供に言ってしまったら、その子の夢を壊しかねない。「創造主であるべき、またはそう振る舞うべき」…要は原作者や作者にはそういう役割もあると言うことです。

よく今でも(原作にはない)アニメのストーリーについて質問をされる外国の方がいらっしゃいます。しかし、僕には答えられません。アニメは監督や脚本家の「作品」です。僕がどうこう言えるものではありません。アニメは彼らの作品で、出来が良ければまず監督を讃えるべきだし、その逆もしかりです。

ご存知の通り、メタベイの人気はベイブレードという玩具そのものの持つ圧倒的な魅力によるものです。また人気に火がついたのはアニメが放映されてからですから、誰の功績が大きかったかは言うまでも無いでしょう。前作爆転の功績の上に立った成功とも言えます。以前ブログにも書きましたが、メタベイの成功は多くの人の努力の成果であり、自分はそのほんの一端を担ったにすぎません。

それでも。

玩具やアニメ・メタベイの成功によって自分も讃えられる…メタベイを生み出した者の1人として暖かい言葉をいただくことができる。…それが原作者という立場です。


自分の立場を単純化してまとめると、

「漫画:メタルファイトベイブレード」の作者であり、

しかしアニメの作者ではなく

でもメタベイというコンテンツの原作者(の1人)なのです。


「公式」という言葉をよく目にします。

なるほど原作者の発信する言葉は人によっては「公式」扱いなのかもしれません。その発言は責任がつきまとう、だから迂闊なことは言わないで欲しい。そういう考えは当然のようにあるでしょう。

また、コンテンツ全体をまるで私物化したり、原作者が神、のような勘違いをすることも忌み嫌われるでしょう。当然の反応だと思います。

ただ、その結果が「なるべく余計なことは発言しない」「差し障りのないことだけ流してくれればいい」ということであれば、僕は首をひねらざるを得ません。本当にそれは正しいのでしょうか?

先に結論から述べます。

作者と作品は別モノです。作者を嫌うことがあっても、作品を嫌う必要はありません。逆もまた然り。

作者にとって作品…愛すべき作品は、商業活動に関係なく心に生き続けるもので、創作を止めることは難しいと思います。


原作者とは親のようなものだな、と思います。子供の偉業でも、その子を産んだことを讃えられる。だから「お前がやったんじゃない、子供が頑張ったんだ。親と子は別モノだ」と人に言われれば、全くその通りなのです。当たり前すぎて、わざわざ自分が口に出すことではないだけで。

それでも、嬉しかったり、光栄だったりするわけです。

だって親ですから。

沢山の親の1人かもしれません。ですが、親は親です。子供がある日子供じゃなくなることは、決してありません。だからずっと愛しているし、心底、大切なのです。

メタベイは僕ひとりの力で新しいものを創作することができない作品です。最初に書いたとおり、アニメや玩具メーカーと協力して初めて形作ることができる作品です。だから決して神のような振る舞いはできないし、ありえない。

しかし、物語とキャラクターの創造を担った関係で、自分の中にその「世界」が存在するのも事実です。

また、タイアップ物であろうと、担当と二人三脚で作り出した物語であろうと、原作漫画のメタベイは僕の作品であり、自ら血と汗で生み出した原稿です。ですから漫画としてのメタベイへの思い入れは、メタベイ全体への原作者としての思い入れとは圧倒的に別のものです。自分の頭の中に世界があり、いつまでもキャラクター達が生きているのです。

バカバカしいことだと思うかもしれません。しかし、彼らは確かに僕の頭の中にいて、生きている。しかもただ記念品のようにしまっておく「モノ」ではないのです。商業ベースに乗らないからといって、考えないようにしたり、そとに出さずにいられるものではないのです。

だから自分はそれを描きます。吐き出します。


…なるべく落書きのような形で。なるべく当たり障りのない程度に。公式設定だ原作者だと喚かずに、ただ、ただ思うままに。とはいえ創作ですから、どうやったって今まで描いていない時間や場所を題材にしてしまうことはあるわけで。

それを「公式」と言われれば、きっとそうなんだろうな、としか言いようがありません。

人によっては、その落書きでさえ時には余計だったり蛇足だったりするでしょう。けれど、それは仕方の無いことだと思うんです。作品は届いた瞬間にその人のモノでもあるのですから。

所詮、落書きであり呟きです。仮にメタベイが再開したときに、僕の落書きがその時のリリースとつじつまが合わない場合は、簡単に無かったことになる…その程度のものです。むしろその程度のものであるように、あえて落書き、としているつもりです。

映画のパイロット版や、絵画の下絵のように。アイデアノートのように。譜面のように。それは押しとどめることのできないものです。あえて設定に絡んでいって、それを知らなければ本編を楽しめない、といったようなことをやっているわけではありません。

しかも、すでに連載を完了している作品です。


漫画の連載が危ぶまれたときに、躍起になってブログに絵を描いたり、実に不合理なこともしてきましたから、あまり胸を張って言うことではないのは承知しております。

僕にはメタベイというコンテンツを盛り上げる責務がありました。なぜならその利益を受け取る立場にいるからです。あたかも親が子供を見守り、時にはその成功に支えられるように。

当時、そこに必死な思いがありました。ほんの僅か、未来がつながる可能性があったからです。結局はそれは叶わぬ願いでしたから、自分の必死に足掻いた醜い姿がそこに残るのみとなりました。

それでも、醜かろうと、自分のしてきたことに一遍のやましさも、僕は感じておりません。

作者は人間です。人間には美しい部分も醜い部分もあります。だから作者の嫌な部分を見て、作品を否定する必要はないし、ましてや複数の人の手で作られたものであれば、それは作者とは別モノなのです。


「公式」は「公式」です。ですが、神のように絶対的なものではありません。数多のディレクターズカットがあるように、作り手はいつでも自分の作品を改編するし、改悪するし、時には「なかったこと」にすらしようとします。それがクリエイターというものであり、そうやって作り続け、変化し続けないと生きていけないのが「公式」なのです


もし皆さんがメタベイを愛し、原作者の振るまいが気に入らなかった場合は

親と子の関係だと思ってください。

親がどういう人間かは無視するほど小さな情報ではありません。が、子供の評価そのものを覆すほどでは、ないのです。


(投げ銭システムを置いておきますが、以下に特だった文章はありません。読んで頂き、ありがとうございました)

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