週刊タカギ #7

こんばんは、高城顔面です。

体調がすぐれないと眠るしかないのが玉にキズ。めちゃくちゃ寝てましたし、この後も寝ます。


本日は、1/22(月)。一首評を掲載します。

セッションがおわってしまえばドラムスはわたしなんかにバラされてゆく

本田瑞穂『すばらしい日々』(邑書林,2004)

著者の第一歌集より。連作「『黄金の月』」に所収。

(わたしの記憶が正しければ)著者はすでに短歌から離れてしまっており、わたしがこの歌集を知ったのも、錦見映理子『めくるめく短歌たち』(書肆侃侃房,2018)でその中の一首が紹介されていたことがきっかけだった。

連作の題である『黄金の月』は、おそらく1997年リリースのスガシカオの同名のシングルが下敷きにされていると思われる。個人的に彼の音楽について寡聞なこともあり、YouTubeの公式チャンネルでプロモーションビデオを見て、歌詞検索サイトで歌詞を確認する程度にとどめたが、時間の経過とともに擦り切れ、どこかくすんでゆくような「ぼく」と「君」との関係性を描いた曲だという印象を覚えた。連作のほかの歌の中にも、どこか歌詞と呼応するような箇所があり、強い意識下にあるのだろうと推測できる。

連作全体(九首で構成される短い連作である)を通して見ると、主体が憧れているが、なれないもの(たとえば「吉田美和」)や、自分とは異なる立場にあって、手の届かないもの(人との関係性や季節の移り変わり)などが詠まれた歌が多いのだが、この歌はその中でも特に唐突な印象を持ってあらわれる。なぜならば、前後の歌に「セッション」の具体的な描写もなく、「ドラムス」の登場を連想させる事物もあらわれないからだ。

連作の中にいきなり表出した「セッション」。最低でも「ドラムス」が置かれていて、ギターやベース、あるいは管楽器などの他の楽器もステージに置かれているのだろう。しかし、主体はあくまでも「ドラムス」をとらえ続けている。

「ドラムス」(=ドラムセット、ととらえてよいだろう)は、とにかく場所を取る。最低限必要なものでも、バスドラム、ハイハットシンバル、スネアドラムとそれらのスタンド類やスローン(椅子)は確実に必要なところだ。ほかにも、さまざまな音が鳴るシンバルが数種、タムと呼ばれる大きさの異なる2~3個の太鼓類もそろえてやっと一人前のドラムセットに仕上がる。激しく複雑な音楽性を志向するドラマーであればさらにシンバルやタム、バスドラムが増えてゆく。そうなってくると、素人目に見ても要塞のようなセットになってゆく。

そのような大げさなセットではないにしても、ドラムセットはバンドの華であり要ともいえる楽器であり、大小さまざまなパーツによって構成されている。主体にはそれが偉容がある姿に最初は見えたのだろう。

しかし、セッションが終わり、手伝いか何かで片づけをはじめてみると、分解されていくごとに、どんどんと印象が変わってゆく。
シンバルをスタンドから外し、ハードウェア(スタンドやバスドラムのフットペダルなどを指す)と太鼓類に分解してそれぞれのケースに収めてゆく。すると、「わたしなんか」でもバラバラにできてしまい、セッションの時にはあったドラムスの偉容はなくなってしまう。残るのは余韻だけである。

主体自身のやや卑屈な自己評価と、ドラムスがあっけなく解体されてゆく光景という、普段は交わらないであろう二つの線が、ふとしたはずみによってほんの一瞬クロスする。一首の中で感情と実景(行動)のどちらもが相互に作用しあって完成されているような歌だと感じた。


次回は1/26(金)更新予定。短歌を掲載します。


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