週刊タカギ #15

こんばんは。高城顔面です。
最近は図書館通いをよくしています。
とはいっても、調べごとをするのではなく、ノンジャンルで読みたい本を読んでいるだけ。
これじゃあ、書きものも進まないわけです。ほどほどにしよう……。


本日は、3/8(金)。一首評を掲載します。

掬い上げおさめてゆくのだ「歌になりたい」ときゅらきゅら騒ぐことばを

笹本碧『ここはたしかに 完全版』(2020,ながらみ書房)

笹本碧の歌には、意表を突かれることが多い。

「風が吹けば桶屋が儲かる」ということわざがあるが、それに似たようなバタフライエフェクト的な「そうきたか!」と思わせられる動きを、一首のなかの事物のはたらきから感じてならないのだ。たとえばこんな歌たち。

耳鳴りがしてくるような雪の夜千葉県の音全部吸われて
パンケーキ来るまでの間に横浜は20分だけ夏至に近づく
わかるけど飲み込んじゃった多摩川になるはずだった雨のひとつぶ

マクロからミクロ、ミクロからマクロ、地球という惑星の上で起こっているはたらきを一首の中に美しく収めており、自己の姿も同じスケールの上に並べてみせる、という手法の歌たちだ。そして、そのどれもが「そうきたか!」という驚きで充ちている。

笹本は2011年より作歌を始め、今回取り上げる『ここはたしかに』には、2012年から2019年までの歌が収められている。
先に引用した歌は比較的初期のもので、生活詠でありながら、宇宙・地球・自然に寄り添った独特のスケール感を併せ持つという、独特のスタイルの歌が多くみられる。

さて、初期の歌があるということは、後期の歌もある。このような歌たちだ。

点滴機かぽわんかぽわん働いてがんセンターの夜回りゆく
うすみどりの満月そそぐ駐車場ここから帰れる人々のため
もう完治せぬと言われて見る空はいつもと同じでただ青いのみ

『ここはたしかに 完全版』は笹本碧にとっての第一歌集でもあり、遺歌集でもある。
笹本は2017年にステージⅣのがんと診断され入院。一度は復職するまで回復するも、再度入院し、この歌集のプロトタイプである『ここはたしかに 臨時版』の完成を見届け、2019年に34年の生涯を終えた。
そして、笹本の死後、同じ結社に所属していた、横山未来子や佐佐木頼綱らが中心となり、遺稿、年譜なども含め、あらためて編まれたのが『ここはたしかに 完全版』である。

笹本は、自らの病に対して、最期まで「短歌」という形式で向き合い続けた。あと二首だけ、最晩年の歌を紹介させてほしい。

足の感覚どこへいったの急激という言葉がこんなにあてはまる状況もなく
ミダゾラム使う怖さの意味を知らぬまま短歌を作るそれでもいい作ってみる

定型から大きく外れた破調の歌だ。病による危機感、切迫した感情がこの大きな破調によってダイレクトに伝わってくるかのようだ。
二首目は、歌集の一番最後に置かれている絶筆の歌。「ミダゾラム」は緩和ケアなどに使われる薬のようで、苦痛が和らぐ代わりに、歌をつくるという思考まで奪われてゆく可能性もある。だがそれでも、短歌を作ってやるんだ!という笹本の果てない気概を強く感じる。

この歌たちを踏まえて、今回引いた一首を読んでみる。

笹本の周りには、さまざまな歌のテーマがあった。
前述したような、自然、地球、宇宙を感じさせる歌や、職業詠も多く残しているし、病床の中でも数多くの歌を残した。
きっと、それらのテーマは、笹本の中で、この歌のようにきゅらきゅらと音を立てながら、周囲に転がっていたのであろう。
それらを時には精緻に、時にはありのままに、短歌という形式におさめる。笹本が作歌を行っていたのはおよそ9年間。その間に、多くのことばを掬い上げ、歌を作りあげた。
笹本碧という歌人がいたという証し、そしてその姿勢が、この一首の中にこもっているような気がしてならないのだ。


次回更新予定は、3/15(金)。短歌を掲載します。


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