週刊タカギ #17

こんばんは。高城顔面です。
怒涛の年度末!年度初めまで乗り切りたいところです。


本日は3/22(金)。一首評を掲載します。

「身の丈の作品なり」と評されてわが歌きょうも身の丈詠う

浜田康敬『「濱」だ』(2020,角川書店)

浜田康敬の第六歌集より。浜田は1938年生まれ、北海道出身で、現在は宮崎県在住の歌人である。
まず今回引いた歌について。歌集の序盤に置かれている、吹っ切れた詠みぶりの歌である。この歌集の中での浜田の歌の姿勢は、基本的に「身の丈」のことが詠まれることが多い。その姿勢は奥村晃作などにも通じる雰囲気を併せ持つが、初期の浜田の歌は、生活の中での鬱屈・閉塞感を皮肉めいたユーモアを交えながら詠む、といったもので、まったく違う方向性の歌が多かった。第一歌集『望郷篇』(1974)より一首引く。

豚の交尾終わるまで見て戻り来し我に成人通知来ている

この歌に関しては、塚本邦雄も巻末の解説で、絶妙な語彙のバランスや、若者らしさに頼らない、すぐれた屈折的な表現技法を賞しており、浜田の代表歌ともなっている。

では、『「濱」だ』の「身の丈」の歌に戻ってみよう。

死ぬことにさして怖さは感じぬとこの頃思うが死にたくはなし
爪みがき、マタタビ、そして猫の食うものだけを買いポイント貯まる
きょうが最後いやいや明日もまだ出るとチューブ歯磨きまた棚に置く

なるほど、たしかに「身の丈」の歌である。しかしながら、一方ではこのような歌も収められている。

すでに時効、ゆえに申すがかつてわれは一度だけヒロポンを打ちしことあり
フォークソングは全編詩語に覆われて、詩語、詩語、詩語、詩語、死後まで続く
大鍋の底にいに凝る甘辛を搔き混ぜて均等の味造りゆく

……「身の丈」?身の丈とはいったい……?となってしまう。
一首目「ヒロポン」は現代でいうところの覚せい剤であり、1951年までは市販されていた合法薬物であった。しかし、それでも、歌の中で、現代ではあきらかに違法な薬物の体験をド直球で詠む歌人というのも珍しいのではないだろうか。
二首目、全盛期のフォークソングといえば、青春、恋を歌い、時には若者たちの政治への啓蒙手段のひとつとして扱われてきた音楽だ。吉田拓郎、高田渡、友部正人など、詩にこだわりを持つシンガーソングライターも少なくない。そんな「フォークソング」の詩を「詩語」という一語でまとめ、五回も歌の中に織り込み、連想ゲーム的に「死後」という言葉へとイメージをつなげる。なかなかユニークな歌だ。
三首目、「団地祭り」と題された一連の中の一首。住民にふるまう鍋料理を作っている光景を描いている。まだ未完成な鍋の味を「大鍋の底いに凝る甘辛」と表現し、そこから「均一の味」を目指していくという、調理過程が見える化されるような、興味深い発想の歌だ。

平凡な日常の「身の丈」が淡々と詠われて、すっかり油断しきったタイミングで、浜田の「身の丈」(「視点」とも呼べるだろうか)の姿だけが突如として変わっていて、ハッとさせられる。そんな時々のスパイスをふっと味わうような、そういった楽しみ方もできる歌集なのかもしれないな、という風にも感じさせられる。
ほかにも、早世した父の足跡を辿る連作、息子一家の住むアメリカへの旅行詠なども収められており、浜田の歌の中での「身の丈」は当分縮みそうにないな、と思わせられる一冊である。


ここでお知らせです。

高城が所属している北海学園大学短歌会の会誌「華と硝烟」創刊号が刊行されました!評論・作品ともに大充実の116頁に仕上がっています。
現在、小樽のがたんごとんさんにて、通販でお買い求めいただけます。9月の札幌文フリでも販売予定ですので、手に取って読んでみたいという方はこちらでもぜひ。

高城は今回取り上げた浜田康敬さんの第一歌集『望郷篇』と、田村元さんの第二歌集『昼の月』の歌集評、短歌連作「ある記憶」二十首を載せていただいております!

高城はともかくとして、かなり力の入った一冊になっておりますので、皆さまぜひご一読いただけますと幸いです!


お知らせをもうひとつ。私生活多忙のため、「週刊タカギ」はしばらく春休みをいただきます。ご了承くださいませ。

更新再開は、4月中旬ごろを予定しています。次回は短歌を掲載予定です。よろしくお願いします。


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