「新型コロナの今、考えたい学びと費用の在り方:学習・学力向上過程には学校コミュニティへの投資も必要」(『SYNAPSE』2020年10月号,pp.30-35)

コロナ前に煮詰り済みの新しい学習課題


 新型コロナ(以下「コロナ」)は長引きそうである。よく対比される「スペイン風邪」は3年3派にわたり2年目冬の被害が猛烈だった(『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ』藤原書店)。懸念される経済危機も決算期ごとに変質し、当初はデフレで回復期にインフレという段階ごとに社会や生活に影響を与えると予測される (『世界大恐慌』講談社学術文庫)。食料やエネルギーを含めた商品需給は極端に上下しそうで(例えば、マスクのこの数か月間の需要ひっ迫と供給過多が参考になろう)、今後の国際情勢も日常生活も楽観できない。
今の時点で「アフターコロナ」に教育がどう変わっているかは予測できない。例えば、9月入学制は5月末ごろの議論でいったん沙汰止みとなった(『中央公論』9月号の相澤真一氏の論文が詳しい)が、次の冬に猛烈な流行が生じれば、来春に切迫感のある議論が起こるかもしれない。不安定な未来予測は避けたいが、今回はコロナにより深刻度が増すと想像される学びの“平等”や“未来”に関わる論点を2点紹介したい。保護者にとって“今現在の満足感”を感じやすい自由な要素が、コミュニティ充実と学校インフラ保守を阻害する危惧である。

未来の人生に後々効いてくる“非認知的能力”(別名“学習のための積み木”)


 身分制度が“差別”(根拠のない区別)として廃された近代以降、職業選択や経済的豊かさの競争を決着させる “区別”の根拠がメリトクラシー(実績による階級分け)である。この主要部分が学歴(卒業した最終学校段階と取得した資格・免許)である。21世紀以降の教育改革では、マークシートのように正解があるため試験の点数化が容易な能力(収束的思考力など)に加え、複数の解を提案できるような力(拡散的思考力)や個人の変化の評価(絶対評価)、未来の能力向上余地(コンピテンス)なども学力として測ろうとしてきた(新学力観)。このような学力の定義拡大に耐えられるように法令も変更されている(2008年改正の学校教育法30条2項における学力の3要素など)。
「知・徳・体」といわれるが、知的な学力とは区別されてきた“徳”(人格教育)や“体”(生活指導)が近年“学校で身につける力”であり“知的な学力の前提条件”として英語圏の心理学研究で非認知的能力として注目されている。これは試験等で測定可能な力(認知的能力)ではなく、学校の卒業時には目立たないが、中年期までに犯罪や離婚、不健康行動などの人生の不幸を数的に抑制する効果を持つ。ゼロ年代にはノーベル経済学賞受賞者のJ.ヘッグマンが乳幼児期までに発達が完了し、認知的能力(以下、「学力」)と独立するとして、保育幼児教育の公共投資の価値を強調していた (邦訳『幼児教育の経済学』東洋経済新報社)。しかし、この10年で大学在学まで段階的に発達しつづけ、学習・学力向上過程の前提条件としても意義が確認され、“学習のための積み木”などという別名でも呼ばれる (邦訳『私たちは子どもに何ができるか』英治出版)。この概念を以下の図に示す。

子供はこのような人間的能力を“積み木”のように敷き詰め続けながら、この上で学習し続けるのである。

コロナが脅かす未来に立ち向かう、在学中は目立たない能力


 例えば糖尿病自体は自覚症状もなく直接の死因にはならないが、糖尿病がもたらす多臓器不全で人は死ぬため、まずは糖尿病予防と治療が健康寿命確保の“積み木”のような基盤となる。糖尿病根治薬はなく、生活習慣と自己管理(非認知的能力そのものでもある)が必要となる。手軽にお金や介入では手に入らない人間性教育そのものの意義がここにある。糖尿病・不健康過程同様に非認知的能力の不足こそ、従来の“反抗的”や“怠け癖”などと片付けられてきた、 学習・学力過程を阻害する背景といえる。学習のための積み木は非認知的能力がゼロ年代までに強調した“早期形成完了性”と“認知的能力との独立”を修正するために提示された別名であるが、両者は同一概念といえる。今回改訂の『学習指導要領』等における「幼児期の終わりまでに育ってほしい10の姿」などにはゼロ年代までの議論しか反映されていない印象が強く、学習のための積み木のニュアンスで“幼児期から育ちはじめてほしい姿”に修正が必要かもしれない。この辺りに、幼児期を終えても塾やオンライン学習という受験などに特化した学力対策だけでは確保不充分な学校というインフラや社会のコミュニティ維持の意義がある。
コロナの今、指摘したいのは、脱貧困に家庭への利益支給により、長期的に有意義な学習・学力過程を動かす本人の非認知的能力と、いずれもを育むインフラとコミュニティへの投資が割を喰わされる危惧である。この10年、逆進性(低所得を優遇する累進性の逆の発想)の強い消費増税決定後に、その配慮として高校無償化、幼児教育の無償化などの現物支給、子供手当、コロナの定額給付金など現金支給がなされた。いずれも所得制限のあまりない逆進性の高い福祉・教育政策であり、自由主義(リベラリズム)政策の性質を持つ。コロナ前の好景気での国の税収増加の割に教育予算総額はのびなやみ、親世代への利益支給の割を喰い学校・社会教育予算は以前より厳しい。結果的に教員の勤務実態改善や学校のネット環境の整備の立ち遅れなど、学校・社会教育施設の保守やコミュニティ充実が困難となっている。例えば、非認知的能力を目指してきた日本の学校の伝統の一つである部活動は今や事故・事件という悪指標(エビデンス)を積み上げるばかりの過重なインフラ(教員の負担など)・コミュニティ(人員や学区の規模)負荷を伴う活動のように評価されている。また、オンライン学習も公共性が不在で結局は、個々の保護者や地域の豊かさといった家庭・社会の環境格差がそのまま学力格差につながると危惧されている。
日本の学校やコミュニティが伝統的に大切にしてきた能力が今、非認知的能力と注目されても、一見数値化しにくい目標と地味な環境整備を必要とするため、わかりやすい利益支給に比べ分が悪い。あわせて、非認知的能力は家庭教育や保護者への性悪説的な発想も持ち、保守主義(伝統的で自然発生的な営みに愛着を持つ発想)や社会民主主義(自由を制限する公共の福祉を重視する発想)といった自由とは逆の教育観も内包し、耳障りもよくない。そのためパイの限られた教育予算の中で、学校や社会教育の環境整備は利益支給の割を喰いやすい。コロナ以前から割を喰ってきた上に、コロナというより家庭への利益支給がいっそう必要となる今後、どう確保するかが課題である。

日本のグローバル化で顕在化するハンディキャップ


 今回の『学習指導要領』等の改訂により、日本語を母国語としない子女も特別支援的課題の適用対象として拡大された。特別支援教育の国際基準からして違和感がないが、80年代の海外バイリンガル教育研究での生活言語(BICS)と学習言語(CALP)に関する議論が我が国でも必要になりつつある。生活言語とは概ね具体的で基本的(Basic)な対人関係のやりとり(Interpersonal Communication)に関わる言語・思考の技術(Skill)である。生活言語の一定の蓄積の上で学習言語は発達がはじまるが、抽象的な概念や複雑な関係性(Academic)に関する知覚や理解、態度からなる認知能力(Cognitive)を一生涯かけての発達・深化(Proficiency)させていく課題である。9,10歳ぐらいまでに学習言語をスタートできなければ障害に近い課題が生じる(「9,10歳の壁」)。これらの議論は、今のところ我が国では主に一次障害としての聴覚障害が二次障害としての知的障害につながることを抑止する課題意識において注目され、学習言語の習得失敗や困難化は生活言語を上手く操るため “目立ちにくい学習のハンディキャップ”として恐れられている(『「9歳の壁」を超えるために』北王路書房)。
 生活言語と学習言語を理論化したJ.カミンズはバイリンガル(複数言語利用者)を“生活言語しか使えない”と “いずれかの学習言語を使える”、“いずれも学習言語を使える”の3段階に分ける、敷居仮説を提示した。この“バイリンガルながら生活言語しか使えない”状態の問題がダブルリミテッド(セミリンガル)である(本林響子「カミンズの理論の基本概念とその後の展開」『言語文化と日本語教育』や長谷川瑞穂「二言語の認知力発達に関する一考察」『東洋学園大学紀要』が詳しい)。近年、外国人子女の義務教育等での“学習や学習意欲の低さ”と誤解されやすいこのような学習・学力過程の背景への対策不充分さが指摘されている(『学習言語とは何か』三省堂)。
バイリンガルを目指すより、ダブルリミテッド予防と個別の才能伸長という特別な対応が課題
「バイリンガル」や「グローバル教育」といえば、我々は無条件でそれに憧れる。しかし、『学習指導要領』等がミニマムスタンダードであることを考え、「9・10歳の壁」に躓くような子供を特別な支え方を考える必要がある。逆に恵まれた希望・才能への特別な助成・奨学も必要である。このあたりを図にしてみた。

日本人も外国人子女も日本で暮らし学ぶ場合は少なくとも皆で日本語の学習言語の発達スタート点に到達(図①)しつつ、外国語(我が国の『学習指導要領』上は英語)の生活言語程度を保障するのが中等教育までの使命といえる(図②)。次に考えたいのが、学習言語が到達点のない一生涯の持続発展を続ける能力であることを考えたときに、国語も外国語も大学以降では一律の平等ではなく、才能や希望に合わせた機会の均等の視点での区別をした特別扱いも重要である(図③)。例えば、一世代の5割が進学する大学は定員割れの“全入・卒業保障の大学”から“入学倍率10倍・卒業率5割の難関大学”と実に幅広い。修学支援を区別なく扱うのは結果的に経済力のない家に生まれた個性的希望や才能を阻害する。現在、米英の大学卒業学歴を目指す留学は授業料だけで国内の医学部卒業に匹敵する投資を必要としており、これが“若者の留学離れ”の正体である。さらに、日本国内では労働者の5%未満しか高度な外国語を職務で必要としないなか、英語を公用語とする対ドル通貨の安い中進国の子供と比べて日本人の英語学習の教育投資効果は相対的に不利であることへの配慮も必要である。仮に日本の子供をグローバル対応するのであれば、機会の均等という個を区別し特別扱いを行う、公的な奨学・助成の充実も必要である。
国語にも外国語にも幅広い能力レベルの違いや学歴の差があり極めて奥深く多様な選択肢があり、それぞれに多様で重いコスト(費用や本人の努力、周辺社会環境の確保など)がかかる。直接・一律の利益支給は機会均等な特別支援もグローバルな才能・希少な希望も親世代の経済状態に縛られる。再度指摘したいのは広く浅い逆進性のある利益支給(自由で一律の平等)よりも、機会の均等に配慮した区別や特別扱いを今、再注目する必要があるのではないかという提案である。高等教育無償化という一律の現物支給が教育財政という限られたパイを持っていき、才能と希望にあわせた海外留学などの助成や奨学が立ち遅れるという“割を喰わせる現状”に危惧を示したい。

直接の利益支給という保護者向け負担軽減は教育的なのか?


本稿で指摘したいのは利益支給のような耳障りのいい自由と比べ、煙たがられやすい公共性である。これは保守(コンサバティブ、メンテニング)と社会民主主義(コミュニズム)の発想からなる。筆者個人は家計や子育てにゆとりのない保護者の子供に重点的な累進性をつけた教育・福祉の取組として非認知的能力確保と奨学・助成という“特別扱い”が必要であると考える。前者は家庭教育では広く保障しきれない弱い立場の子供の未来を守る学校インフラの保守で、後者は大学以降に才能と希望に恵まれた人材を社会全体で経済的に後押しする発想である。
 リーマンショック勃発から株価最安値の時間差は2年近かったが、コロナもこれから家庭の収入を時間差で大きく脅かすと予測できる。不足する家庭収入への配慮が必要で、さらに福祉や教育の利益支給の強化を必要とする。しかし、地域コミュニティ成立の4つの最低インフラといわれる、電気と水道、交通網、学校といった各要素の確保・保守も過酷な状況である。同時にコロナ以前から人口減少と過疎過密などでコミュニティの課題も深刻である。コロナとコロナが起こす経済や文化の悪影響を乗り越えるには最終的に通貨を発行する国に地方も企業も家庭も個人も一時的に依存せざるをえない。このような“一律の平等”がより求められる時期にこそ、個の差に合わせて特別支援的配慮という底支えと、平均以上の能力に恵まれたものにふさわしい学びの支えを行う機会の均等という特別扱いを行える学校教育の保守とコミュニティの充実も同時にそれだけ大きくなることが求められる。家庭や個人への利益支給が、今までの流れに加えてさらに学校インフラやコミュニティの財政の“パイを奪う”のはいけない。異常時に“パイ全体が大きくなる”ことが重要だと指摘したい。



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