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しあわせのイースター・エッグ

2歳半の幼少のころから、「日曜学校」に通っていた。
日曜学校とはキリスト教会の牧師が校長先生となり、毎週日曜日に開催する子供会のことである。
このnoteには昨年の12月に、私が「日曜学校」に通い、クリスマス・スピリット(キリスト教主義)を胸に抱いていることを綴った。

日曜学校に行き始めたのは保育園がミッション系だったからだが、小学校も卒業する頃には自分の意思で礼拝へと出席するようにもなった。

そして中学一年生で洗礼を受けた。
大人になってからは、会社員の経験を経たのち、キリスト教会のスタッフとして働いたことはnoteに記してきたとおりだ。

つまり私はマルチン・ルターの系統にあたる生粋のプロテスタントのキリスト教徒である。

しかし、元・夫とからのDV離婚などがあったことや、病に臥す身の上となり、教会から長らく足が遠のいた。
「教会に行きたい」と思っても病身ではそれも、なかなか難しく、気がつけば10年以上も教会へと行かずに歳月が過ぎた。

ところで
先週の日曜日はイースター(復活祭)だったが、教会へ行くのは、もはや、あきらめていた。
コメダ珈琲店でモーニングを食べながら、ふと「きょうはイースターなのよ」とパートナーであるKさんに言うと、Kさんは「じゃあ、教会に行ってみようよ!」と答えた。
ちなみにKさんはキリスト教徒でもなければ、教会の礼拝に出席したこともないキリスト教に関しては、”ド素人”

教会に行く……私にはためらいがあった。
離婚歴のあるような者が行ってもいいのだろうか。
正式に結婚という形を取っていない事実婚の関係であるKさんと共に礼拝に行っても良いのだろうか。
教会では私の病の身の上を受け容れてもらえるだろうか。
いったん教会を去った私にとって”キリスト教会”はとても敷居が高く感じた。後ろ指をさされたら、どうしよう。

ところがKさんは「行ってみよう、行ってみよう」と私を連れ出してくれた。

いざ、教会へと行ってみると雰囲気良く、その教会の牧師先生にこれまでの経緯やKさんとの事実婚の旨を話すと、後ろ指どころか、あたたかく迎え入れてくださった。

さて、復活祭では教会で「たまご」を配るのがどの教会でも恒例の習慣だ。
イースター・エッグ。

「たまご」を配るのには理由があり、それはキリストの復活にちなんで「新しく生まれる」という意味が込められている。

行った先の教会でも、このイースター・エッグを配っていて、それを受け取った。

牧師先生から「美穂さんももう一度、復活ですね」の言葉をいただいて帰宅した私は嬉し泣きした。
これまでの私の身に起こった不運の数々を、教会の牧師先生は、やわらかに包み込んでねぎらってくださったのだ。
同時に、幼少のころのイースターを思い出して、なんともいえぬ懐かしさも込み上げて涙がとまらなかった。

復活祭にあやかって、ここまでの悲しみの歳月にピリオドを打ち、人生を再出発しようと思えた。

キリスト教会の敷居は高くはなかった。後ろ指もさされなかった。たましいをしっかりと抱きとめてもらえた!
つけ加えるならば、キリスト教には、"ド素人"であるKさんは教会に歓迎されたし、彼も笑顔でいることができた。

人生をやり直す。
これからは……私はKさんと一緒にしあわせになるために生きていくのだ。

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