美穂
他のnoterさんの心揺さぶられた記事たち。
カメラを手にお散歩することがグッと増えた。 これは私にとっては画期的でレボリューションともいえる出来事だ。 なぜかといえば、病の身になり闘病生活を送るようになって10年。 ほとんどが"寝たきり"に近い暮らしだったからである。 そんな私が闘病11年目にして、立ち上がったのだ。 寝たきり生活にピリオドを打つべく、カメラを持って出掛けるようになったのだ。ただし、あくまでも車椅子でのお散歩である。 私はまったくの自力歩行ができないわけでもないが、歩くことは容易ではない。ゆえに、車
先週末、デジタルカメラを片手に植物園へと出掛けた。 出発は朝9時半。 植物園までは、さほど遠くはないのだが、 ドライブ途中ですでにお腹がすいてしまった。 「ねぇ、あたし、お腹すいたよー!コンビニで車を停めてよォ」 パートナーであるKさんは道中でセブンイレブンを見つけると 私にスナック菓子とおにぎり2個を買って来てくれた。 彼は「まるで遠足だな」というようなことを言って笑っていた。 買ってもらったおにぎりを、私は大きなクチを開けて頬張る。 目的地へと再び車は走る(運転手はもち
デジタルカメラに再び挑戦している。 カメラは、パートナーであるKさんからの贈り物だ。 これをいただいたときには、とても抵抗感があった。 カメラを手にすることに対しての抵抗感だ。 というのも、以前(2023年12月18日)に noteに『運命の恋』という記事で書いたが 遠い昔々に交際をしていた男性が プロ・カメラマンだったからだ。 その人と交際していたときに 私は彼の話し相手になれるようにと、 少しばかりカメラをいじった経験があった。 カメラ・スクールに通い、自宅ではフォトマ
2歳半の幼少のころから、「日曜学校」に通っていた。 日曜学校とはキリスト教会の牧師が校長先生となり、毎週日曜日に開催する子供会のことである。 このnoteには昨年の12月に、私が「日曜学校」に通い、クリスマス・スピリット(キリスト教主義)を胸に抱いていることを綴った。 日曜学校に行き始めたのは保育園がミッション系だったからだが、小学校も卒業する頃には自分の意思で礼拝へと出席するようにもなった。 そして中学一年生で洗礼を受けた。 大人になってからは、会社員の経験を経たのち、
1週間ほどの間、noteを 開くこともできないほど めまぐるしく過ごしておりました。 体調と相談しながら そして時間をやりくりして お花見に行ってこれました。 パートナーであるKさんに 車椅子を押してもらいながら 近くの公園内を一周り。 満開の桜を見ながら 「春は人生のリスタートにふさわしい季節かな」なんて思ったり。 noteを休んでいたこのごろは その「人生のリスタート」の 土台を作り直していました。 機会あらば noteにまたあらたに記事として そのことを綴りたいとも
私もイイ歳になるが、生まれてからこのかた、ビールを飲んだことがない。だからといって「あ、じゃあ、日本酒のクチね」というわけでもない。 じつのところ日本酒も飲んだことがない。 ワインやカクテルを口にしたことがある程度だ。しかもグラスに少しだけの程度である。 つまり、私はお酒というものをほとんどまったく知らないのだ。 先入観がある。 「飲んで酔うとどうなるのかが怖い」といった気持ちからだ。 では、これまでお酒の席に連なったことがないかといえば決してそうではない。学生時代はコンパ
縁もゆかりもない場所で、闘病の身となった。 もう帰省しようと思っても身体がいうことをきかない。 もっとも、実家の母から 「離婚歴があったり、なおかつ病身の娘とあらば、世間に恰好がつかない」 と言われているので実質は「帰省するな」と釘を刺されているようなものなのだ。 両親から愛されることなしに育ち大人になり現在に至ることは、このnoteでも綴ってきた。私は今、住んでいるこの街で奮闘中であることも綴ってきた。 二週間ほど前に、母からまたしても不意の電話。 その電話越しに放たれ
少し照れくさそうな顔の彼が、私に手渡してくれたのは洒落たルージュ。 それはホワイトデーの贈り物。 ルージュのパッケージには『恋の駆け引き』と書いてある。 彼にそのことを言うと面白い名の口紅だねと微笑んだ。 どうやら彼はパッケージを見ないで買ったらしい。 恋の駆け引きだなんて難題だわ! そもそも”駆け引き”だなんて、 どうやってしたらいいのかわからない。 早速、彼に相談。 「ねえ。恋の駆け引きってどうしたらいいのかしら」 一晩中、その話題。 彼は笑って「美穂ちゃんは誰と恋
あの日、私がどこで何をしていたのか。 あの瞬間、私は何を思ったのか。 そして、どうしたのか。 誰かに聞いてほしくて だけど 誰にも話せなくて 13年の歳月が流れた。 たったひとつ言えることは 私は被災していなくて 今なお生きながらえている。 消えない十字架を背負いながら。
複数の身体の病のために闘病中の私です。 今週の半ばに大学病院で点滴注射を二種類、打ちました。 副作用もあって具合が思わしくなく臥しています。 ドクターからは「これだけ治療しても一向に良くならないのはもっと他にも病気がひそんでいるかもしれない」と言われました。 言葉にならないうめき声と共に、 今、私は、自身の”残された人生”の使い道を考えています。 noteで繋がってくださっている皆さんの記事も読むことができない状態であることごめんなさい。
パートナーであるKさんが私に言った。 「自然体でいいんだよ。みんなのために無理してまで頑張ろうと思わなくていいんだよ」 ・・・これまでの人生の目標は『マザーテレサのように人々を手助けする人になれたなら』というものだった。 ご存知のとおりマザーテレサは困窮者のために生涯を捧げた女性である。 彼は常日頃の私のこの目標を知っている。だから不意の彼の言葉に面食らってしまった。何故、目標を奪うような発言をするのかと思うと腹立たしくなってしまった。 Kさんに真意を尋ねる。「いや、美穂
病に倒れる以前、私はとても行動的な人間だった。 様々な事柄に挑戦もしていた。 仕事に必要だったことなどもあり、幾つもの資格を持ち、国際ライセンス資格を有していた分野もあった。 しかし闘病の身になってからはそれを以って活躍する機会は失われてしまった。 さて半月ほど前に ふとしたことから、関心のあるセミナー開講を知った。 どうしてもそのセミナーに出席したくて問い合わせると、ワンデー講座なので、朝から晩までの受講だとのこと。 この時点で絶望した。 臥しているか、或いはデスクに
パートナーであるKさんが、ある日、突然、言い出した。 「俺は作家になる」 それから数日後。 「公募しているものにエッセイを出して応募するぞ」と早速に作品を書いたというので、ちょっと見せて欲しいとお願いし彼の原稿を覗いた。 Kさんらしい言葉遣いの文面に、うんうん、なるほどと頷きながら読み進めた。その原稿の途中から私は、えっ!と思った。 なぜならば原稿用紙には明らかに私のことが記してあったからだ。 Kさんはエッセイ記事の中で私を”妻”と紹介していた。 このnoteでご存知
『あゆ』と同じブレスレッド。 あゆと同じような服装。 会議ではあゆと似た発言をしてみたりして。 あのころ私は浜崎あゆみになりたかった。 有名人になろうとしたわけではない。 お金が欲しかったわけでもない。 浜崎あゆみの楽曲の歌詞が好きだった。 深い悲しみを抱きつつ、それを隠そうとはしないで歌詞として表し、この地上にこの時代にメッセージを発する浜崎あゆみの生き方に惹かれた。 あゆがまるでジャンヌ・ダルクのように映っていた。 キリスト教会で働く仕事の責任者であった私の睡眠時間は
どうして幸せはいつも指の間をすべり落ちていくのだろう。 笑顔いっぱいになろうとして結婚をした。家庭を維持するのに努力もしたつもりだった。だけど選ばざるを得ない道は離婚しかなかった。 どうして幸せはいつも砂の城のように波に崩れ去っていくのだろう。 孤独を越えて元気に生きるつもりだった。だけど降りかかったのは手術の繰り返しだった。そうして気がつけばふつうには歩けなくなっている身体になった。 自分を責めた。自分を責めている。結婚生活をどうにかして立て直せたのかと。 自分を責め
いつだったかの記事で私はキリスト教会の専任スタッフだったことを記したが、キリスト教会に赴任する前は会社員であった。旅行会社に勤めていた。 きちんとした大手の旅行会社ではあったが、採用試験ではなんと水着審査があった。 会社勤めをするために何故、水着姿での審査があったのかはいまだに謎だ。 晴れての採用通知。 辞令は希望していたとおりの営業課・国内旅行係に配属。 なんてラッキーなのだろう!花形の華やかな仕事! ところが、だ。総務課に一人、欠員が出てしまい、あっけなくも入社三日