伊東俊太郎『人類史の精神革命』に学ぶ一日本発の独自の文明論「宇宙連関」

 12月22・28日付けnote拙稿で取り上げた、廣井良典と対談した伊東俊太郎東京大学・麗澤大学名誉教授の近著『人類の精神革命』(中央公論新社、2022)は、ヤスパースが「枢軸時代」と呼んだ文明論を凌ぐ「日本発の独自な文明論」であり、必読書である。
 伊東は人類の歴史を五大転換期一一「人類革命」「農業革命」「都市革命」「精神革命」「科学革命」として捉え、「精神革命」は紀元前五世紀頃を中心として、ギリシアで哲学(哲人ソクラテス)が誕生、中国で儒教(聖人孔子)が成立、インドで仏教(覚者ブッダ)が勃興、イスラエルでユダヤ教とキリスト教(預言者イエス)が同時並行的に形成され、哲学と宗教の源点が定められた、としている。以下、同書の終章「精神革命と現代の課題」の内容を中心に紹介したい。

●宗教と科学の対立
 伊東によれば、現代は「環境革命」という第六の変換期で、近代の科学技術の進歩が生み出した環境破壊や生態系攪乱などの負の要因を取り除き、これからの人類が生き抜いていくために、「人間と自然との関係の根本的再調整を行おうとする、現在進行中の変革」なのである。
 17世紀に始まった「科学革命」は近代科学の成立で、数学的分析と実証的実験が結びつく「科学的方法」を創始し、自然にも科学的方法が適用され、18世紀後半の「産業革命」、20世紀後半の「情報革命」が引き起こされ、現代の科学技術文明ができ上がった。
 この「精神革命」によって生み出された普遍宗教と、「科学革命」によって形成された近代科学が拮抗し、AI技術の進展に伴い、その対立には拍車がかかり、生態系の破壊が進んでいる。
 自然の自主的な共生と普遍宗教の他者共生の原理とが、ホリスティックに連関づけられる「環境革命」によって、統合的視野のもとで融合されねばならない。自然の自主的な共生とは、自然が相互に結びつき、みずから創発する自己組織系、いわば自主的な「つながり」をもつという考え方である。

●「精神革命」の過程
 「精神革命」の過程は、第1章から第5章にかけて詳述されているが、その要点は次の如くである。まずギリシアにおける精神革命は、ソクラテスによる「魂」の発見に始まり、その「魂」の対象となる「イデア」の認識を経て、ついにその最高のモノとしての「善」のイデアの把握に至る。
 中国における精神革命は、周時代の「天」が地上に引き下されて人倫化されて「道」となり、孔子の儒教においてはそれは当初「礼」であったが、その「礼」の根底に「仁」がなければならないことが見抜かれて完成に至る。
 インドの仏教においては、この世の「苦」の問題に発して、その苦の基となる「執着」の対象が、実は常に変化して止まない実体のない「縁起」一つまり「空」にほかならないことが自覚され。そこから「慈悲」が出現する。
 イスラエルでは、まずイエスによりユダヤ教における「律法」の概念とその形式化が、徹底的に批判され、それを超えた直接的な神の「愛」が強調され、人々の真の救済へと向かった。
 
●精神革命と「横への超越」
 この精神革命の最後に出てくる「善」「仁」「慈悲」「愛」は、「対人関係の原理」つまり他者に対する我々の生き方の行動を示している。それを伊東は「横への超越」「水平超越」と呼ぶ。「横への超越」とは自然を含む他者との相互関係を自覚し創り上げることを意味している。
 精神革命では、このような「横への超越」が「縦への超越」によって媒介されており、「縦への超越」には、「上への超越」即ち神への超越と、「下への超越」即ちインドの「空」が中国化された「無」への超越である。
 伊東は従来の考え方を一変させ、人と人、人と自然との横の結びつきこそ根源的なものであり、これを実現する「横への超越」のほうが第一次的に重要で、神や無への「垂直超越」は、「水平超越」を可能にするために二次的に求められたものだと捉え直している。
 そして今日の東西の宗教的対立や化学と宗教の不毛な拮抗を根本的に超え出てゆく「横への超越」の根源として、「宇宙連関」という新たな問題提起をしている。

●「水平超越」の根源としての「宇宙連関」
 「共生きの絆」ともいえる「宇宙連関」の構造は、現在の素粒子論や生命論、生態学、動物行動学、認知科学、脳神経科学、「心の理論」などによって極めて明白なものとなりつつある。
 「ミラーニューロン」の発見によって、人と人の間ににおいて学習や感情や情緒の生起において生じていることが実証された。「ミラーニューロン」とは、「他者の意識、喜びや悲しみを直接に理解する」神経基盤で、自己を他者へとつなげる「他者理解」の基礎となるものである。
 ミラーニューロンの背景には「共通の進化」があり、道徳性や心の起源もこの宇宙的「つながり」の進化の結果として生じているのである。この「宇宙連関」こそが「横への超越」を可能にする根源であり、そこから道徳、倫理、心、そして宗教の在り方も再考察する必要がある。
 伊東はこの宇宙的相互作用を手掛かりに、地域的文化的差異を超えて、21世紀の人類が共に生きてゆく「地球的精神原理」が新たに創出されるであろうと指摘している。

●科学革命
 17世紀に始まった「科学革命」は、「自然」に対する見方や態度について、再検討が必要となっている。科学革命の思想の第一は、デカルトによって作り上げられた「機械論的自然観」であり、第二はフランシス・ベーコンによって創唱された「自然支配の理念」である。
 続く18世紀において、前者は「啓蒙思想」を生み出し、後者は産業革命をつくり出し、ともに近代文明を形成し発展させる重要な思想的根源となった。このデカルトの「機械的自然観」もベイコンの「自然支配の理念」も、それ以前の思想体系にはなく、科学革命によって初めて創始されたものであることに注目する必要がある。これらは科学革命によって明確に打ち出された思想的基盤なのである。
 デカルト、ベイコン、ガリレオ、ケプラー、ニュートンら科学革命初期の科学者たちは皆篤信のキリスト教徒であって、自然研究の中心に神の存在の根拠を求めるところがあった。しかし、その後の人間理性による「神の棚上げ」である「啓蒙思想」による近代科学の世俗化によって、はじめて「宗教」と「科学」の分離対立闘争が起こったのである。

●「機械論的自然観」と「自然支配の理念」
 デカルトの作り上げた「機械論的自然観」という近代科学のパラダイムは、「思惟」と「「延長」の二元論に基礎を置いている。自然は機械としての部品、つまりそれをつくっている要素の確認に力を注ぎ、すべてをその要素に還元してみる「要素還元主義」に陥ってしまった。
 しかし現在ではバラバラな要素を結び付けてゆくものの研究の方が重要になってきており、機械論的な要素「還元主義」に対して、「統合論」の必要が要請されている。このような「つながり」の研究を重層的に繋げてゆけば、伊東の言う「宇宙連関」となるのである。現在の科学は、このような「宇宙連関」を様々な局面において研究し、明らかにしつつあると言える。
 ベイコンの「自然支配」すなわち「自然帝国主義」は、近代知による「実験」の重要性を主張し、自然の上に「人間の王国」を建設しようとした。しかし、自然に浸透する「力ある知」によって長く収奪され続けてきた自然は、今や耐えかねてガラガラと音を立てて崩れ去ろうとしているのが今日の「環境破壊問題」である。
 「科学」はあくまでも「宇宙連関」を明らかにしようとする知的行為であって、「技術」はその知識を利用して人工物をつくり、人間の利便を増大させようとするものである。
 ヒトゲノムの人工配列によるあらたな人造人間の製造など、技術的応用・発展には多くの危険を伴っており、その進め方には充分な注意が必要である。「科学」はあくまでも「宇宙連関」を研究するものであって、「技術」はその二次的結果として生ずるが、「科学」は元々「技術」のためにあるものではない。人間の勝手な欲望による収奪の手段になってはいけない。

●むすび
 第一に、人間と自然との根源的な紐帯を回復しようとする今日の環境革命の時代においては、人と自然の共通の進化、つまり「宇宙連関」を考察の中心に置き、その中での精神革命(対人関係の結びつきの自覚徹底)もその過程での発展であったと捉え直す必要がある。
 第二に、自然把握の仕方に問題があり、デカルトによる要素還元主義の限界が露わになり、むしろ部分相互の生きた「つながり」の統合論的研究、つまり本質的「宇宙連関」の研究が重要であり、科学は技術のための奴隷ではない。
 伊東は精神革命と科学革命との間に「宇宙連関」という共通項を導入することによって、宗教と科学の長い根本的対立拮抗を乗り越えることを目指している。
 素粒子から我々の社会まで、ひとつながりの連続としてあることは、「ビッグバン」から「社会脳」の形成に至るまでの進化の歴史を顧みても、今や確実である。この様々な段階の相互作用によっている、この大きな「つながり」の体系としての「宇宙連関」は、どのようにしてできあがり、一体何がその「つながり」をつくっているのだろうか。そこには「サムシング・グレート」を感ぜざるを得ない、と伊東は言う。
 従来の伝統的信条「ドグマ」をかたくなに墨守して、現実の在り方など全く無縁とするような信仰は、真に力あるものとはならない。従って、「世界はいかにあるか」という問題と「世界をいかに生きるか」という課題は決して無関係ではないことを確認して、伊東は本書を締めくくっている。

 
 
 


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