「裏口からの憲法改正」論を斬る一札幌高裁同性婚“すり替え”判決

 大学の同僚である八木秀次教授が5月12日付産経新聞で「24条は同性婚を認めるか」と題する興味深い寄稿をしているのでその要旨を紹介したい。
 昨年までに全国5か所の地裁で、同性同士の「婚姻」を認めない現行の民法や戸籍法の規定などについて判決が出されたが、多くのマスコミが、このうち4地裁で同性婚を認めていないことを「違憲」「違憲状態」とする判決がが出た、と報道した。
 例えば朝日新聞は「同性どうしで結婚できないのは違憲とした5月の名古屋地裁判決」(昨年6月21日付)と書いたが、これは明らかに”誤報”だ。単純に同性婚を認めないこと自体を「違憲」「違憲状態」とした判決は皆無だからだ。
 これらの判決は同性愛者に対し結婚そのものを認めなければならないといっているのではなく、結婚で得られるメリットの一部(例えば社会的承認など)を得られるようにすべきだといっているに過ぎず、「同性婚」そのものの導入を命じることは慎重に避けられている。
 マスコミは多くの国民に「憲法が同性婚導入を命じている」と誤解させているが、憲法24条は1項に「婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」と明記している。
 ところが、今年3月14日の札幌高裁判決は、同性婚を認めていない民法などの規定は憲法24条に違反すると明言し、さらに同条が同性婚を保障しているとまで主張した驚くべき判決である。
 八木はこの判決の理論的背景について、次のように分析する。そこには頭のいい裁判官らしい巧妙な「屁理屈」があり、判決は憲法の「両性」という言葉を勝手に「当事者」と読み替えている。「両性」を「当事者」と読み替えると、憲法24条は、「婚姻は、当事者の合意のみに基づいて成立し…」となる。
 確かにこれなら同性婚も認め得るが、果たして裁判官が勝手に憲法の文言を書き換えるような真似をしていいのか。判決はその疑問にこう答える。憲法の解釈は「文言や表現のみでなく、その目的とするところを踏まえて」行われ、「社会の状況の変化に伴い、やはり立法の目的とするところに合わせ、改めて社会生活に適する解釈をすることも行われている」と。
 そのうえで、判決は次のように結論付ける。「憲法24条1項は、人と人との間の自由な結びつきとしての婚姻をも定める趣旨を含み、両性つまり異性間の婚姻のみならず、同性間の婚姻についても、異性間の場合と同じ程度に保障していると考えることが相当である」
 要するに、憲法の言葉を同性婚推進派の都合のいいようにすり替えたのだが、この論理には元最高裁判事の千葉勝美氏の『同性婚と司法』(岩波新書、今年2月刊)と、彼が発表した論文という「元ネタ」があるという。札幌高裁判決は千葉氏の論理も言葉遣いもそのまま借用している「パクリ判決」だと八木教授は批判する。
 「憲法の変遷」という考え方を取り込み、憲法条文の意味は時代によって「変遷」しているのだから、「両性」「夫婦」の文言は、「当事者」「双方」と読み替えてもいいという訳だ。
 しかし、このような「憲法の変遷」論は学説として存在するのは事実であるが、憲法の文言の原意に関係なく、裁判官の主観的判断で再解釈することは事実上の立法行為をするに等しく、立憲主義や憲法の規範性に反する。
 憲法改正は国会の発議で国民投票によって決めるべきだと憲法が定めているのに、それを司法が勝手に行っていいのか。仮に同性婚を法制化したいのであれば、正面から憲法24条の改正を唱えるのが筋であり、裁判所による「裏口からの憲法改正」の是非こそが問われている。
 なお、憲法第24条の制定過程については、アメリカで公開されたベアテ・シロタ・ゴードン文書に基づいて解明した拙稿「ベアテ・シロタ憲法草案についての一考察⑴一憲法第24条の制定過程を中心に一」(『歴史認識問題研究』第6号,2020)を参照してほしい。
 

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