存在論と認識論の対立を乗り越える場所論一「哲理数学」の研究課題

 昨年12月22日付note拙稿で詳述した伊東俊太郎東京大学・麗澤大学名誉教授が「場所論」をテーマに行った最後の講演で、存在論と認識論の哲学から「場所論」へ転換しないといけないと強調された。
 17世紀になって近代哲学は存在論を認識論に変換した。これを代表するのがデカルトの「我思う故に我あり」という有名な言明である。思惟する主観が対象(客観)を規定するという訳である。唯物論と観念論の二元論的対立を超えるためには、主客を結び付ける「場所」に注目し、認識において主観と客観は「一緒に生まれる」点に注目する必要がある。
 妻の詩をnoteで多く掲載しているが、妻が太陽を「美しい」と感じるのは、妻の主観、あるいは太陽という客観(対象)の中に美しさがあるのではなく、妻と太陽との関係の中に美しさがあり、主客を結び付けている「場所」が重要なカギを握っている、美しさは妻と太陽を繋ぐ状況全体の中にあるのである。
 「認識」は主観の属性でも客観の属性でもない。まさしくf(関数)の属性なのである。従来の認識論はこうした「認識の場」を無視して、それから主観や客観を抽象的に孤立させ、どちらがどちらに還元されるかなどと言い争ってきた。これが観念論と唯物論の論争ともいえる。しかし、認識の本質は、本来この「場所」の「関係」にあるから、どちらに還元されようもなく、それは一体の「現実」なのである。
 このような「近代認識論の根本的誤謬」を批判する伊東氏は、観念論的意識主義と唯物論的模写説の双方を批判し、実際は主観でも客観でもなく、その両者の結びつく状況全体の中にこそ、認識の「現実」があり、関数がつくっている状況全体を「認識の場」と呼んだ。
 和辻哲郎は『人間(じんかん)の学としての倫理学』で、人と人の対話によって発展していく「間柄」によって、共通の認識が生成されていくと捉え、「風土」の重要性を強調した。伊東は異文化との対話が重要と説く。
 伊東によれば、「進化という絆」が我々と自然とを結び付け、生き物の進化の過程で心が出現し、人間が成立した。クリスチャン・キーザーズは『共感脳』で、ミラーニューロン(情動的共感)によって自己と他者が結びつき、一緒に生きようという「共生きの絆」によって結ばれ、伊東の言う「横への超越」という「宇宙連関」へとつながるのだという。
 倫理学の原理は天から降ってきたものではなく、生物同士、人間同士の関係の中で進化して形成されているという「進化的倫理」、進化を基盤とする「進化的哲学」を提唱し、「道徳の起源」論を展開した。
 西田幾多郎が「場所の哲学」「場所的世界」ということを最初に言ったが、和辻の「風土」にも共通の問題意識が見られる。西田の場所の定義は「述語となって主語とならないもの」であるが、主語中心の哲学から、述語中心の哲学へ転換したのが西田幾多郎である。
 西田は「仏教において観ずるということは、対象的に神仏を観ることではなく、自己の根源を照らすこと、顧みることである。それは世界成立の根源に入ることにほかならない。…それは道徳の根底となる立場である」と「場所的論理と宗教的世界観」という論文で指摘している。
 「存在」とか「認識」といった静的なものを最初に措定するのではなく、生成し発展し進化していくダイナミックな創成を追求する新しい知の在り方がこれからの哲学に求められている。進化に基づく動的な知を求める基盤、土台をつくるのが「場所論(コーコロジー)」であると伊東は結論づけている。
 伊東は西田のナショナリズムを乗り越える「地球性」「地球倫理」の重要性を説いていることは、廣井良典京大教授との対談⑴⑵の要旨を紹介したnote拙稿で詳述した。
 光吉俊二氏の「四則和算」の数理を分かりやすく解説するためには、従来の「存在」と「認識」の二元論的対立を打破する「場所論」の視点が必要不可欠である。京都大学に新設される「哲理数学」は、西田哲学の場所論と伊東俊太郎の「コーコロジー(場所論)」との関係を探究することが求められる。
 光吉氏は「ウェルビーイングの数式が完成した」として送ってこられた「人類史と四則和算」と題する約300頁に及ぶパワポ資料において、「意識の信号処理」として、「哲理数学では、『意識』『行為』『分離数』『連続量』をちゃんと分けて扱うことで、意識を数理で扱えるようにしようとする試みである」と明記しており、この「哲理数学」の研究がどのように進展するか、期待するところ大である。


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