三木露風が祖父に宛てた書簡

 私の祖先は赤穂城の城受け渡しに関わった脇坂藩の筆頭家老で、母校の龍野中学校は城跡に建てられた。我が家は城の真下にあったため、中学校の開始ベルが鳴り始めると家を出れば遅刻しなかった。
    祖父はカイゼル髭を生やし180センチ以上の長身で日本画の画家、小学校の校長、初代龍野図書館長でとても威厳のある厳格な教育者で、私を含む6人兄弟の孫は恐れていたが、私だけが反抗した。
    ある日幼い私が我が家の庭でツツジの花びらを無意識にむしっていたら、祖父の怒号が飛んだが、私はひるむことなく「そんなこと言うんなら、庭のつつじを全部取るぞ」と言い返したところ、「史朗には勝てんな」と言いながら爆笑したという実話を何度も母から聞かされた。

 昭和55年、アメリカの大学院に留学中、博士論文に向けた発表を授業でしようとすると、指導教授が「今日は昨日テレビで放映された『将軍』について聞きたい」と言われて驚いた。島田陽子主演でアメリカでは毎週放映され、大変な人気であった。
 質問のポイントは、「日本女性はみな島田陽子のように美しくつつましいのか。日本人はなぜ切腹するのか」であったが、大学院生の中には「日本人は今でもパゴーダに住んでいるのか」と質問する者がいて驚いた。教科書にそう書かれていたという。信じがたかったが、調べてみると実際にそう書かれた教科書があったので驚いた。。
 『将軍』について大学新聞からも取材され、「日本人はなぜ切腹するのか」と質問された。私の祖先にも切腹した方がおり、父から何度も「命を粗末にしているのではなく、自分の命よりも尊い道義を貫くために腹を切ったのだ」と説明された。後日、割腹自決した三島由紀夫が「生命尊重以上の価値を諸君に見せてやる」と檄文に書いて、自衛隊員に対して訴えたことが思い出される。
 父の武士道についての説明を踏まえて、新渡戸稲造の「武士道」を中心に力説したが、大学新聞には「髙橋史朗は『武士道』とは死ぬことと見つけたりと語った」と書かれ、真意が伝わらなかった。
 占領政策で「武道」を禁止した理由について、明星大学で開催した国際シンポジウムでコロンビア大学のハーバード・パッシン教授(元占領軍幹部)に質問すると、「軍国主義だから」と答えられたが、「それはとんでもない誤解です。”武”というのは”戈を止(とど)む”即ち、軍国主義とは全く逆の平和の精神です」と反論すると、にやりと微笑を浮かべ、「実は私の孫が空手を学びたいと言い出したんだよ」と告白され、会場は笑いに包まれた。
 
 話は変わるが、『赤とんぼ』の作詩者の三木露風の家も龍野城の近くにあり、我が家から歩いて5分もかからなかった。祖父と三木露風は幼年期から極めて親交が深く、毎月和歌の会を行っていた。『龍野市史』には三木露風が祖父に宛た書簡が掲載されているので、その一部を紹介しよう(原文は読みづらいので、現代表記に改変)。

<ご清栄と存じあげ候 小生、東京雑司ヶ谷に父の墓を建碑。(大正11年)10月31日,任地へ帰り申し候。このたび、久しぶりにて、帰龍し幼年時代のなつかしき記憶ある君にお目にかかり、またわが母校を見たるは、深き喜びにござ候
龍野図書館の第一歩として、簡易図書館の創設を見ることは小生年来の宿志を実現せらるることとて、これまたよろこびにたえず。はるかに祝福を送り申し候。なお、左の書籍、龍野簡易図書館に寄贈いたしたく、ご受領くだされたく候。   牧神詩集・真珠島・青き樹かげ・露風集・童謡民謡詩選集各一部>

<お手紙拝受。図書館その後、ご尽力により、計画着々進捗いたしおることを知り、衷心喜びにたえず。成功を祈りおり候。もし、いよいよ開館することとならば、龍野の図書館たることはもとより、揖保郡の図書館にてあり、西播の図書館ともなり申すべく候。私財を投じても、龍野に図書館を設置したしとは、小生年来の宿志にてこれあり候いしところ、幸い、実現の端につきたるは、その喜び何にもたとえがたく候。これというも、君がおられ死により、こと新しくも、速くかつよく御運ぶことをえ申し候。言うまでもなく、小生は龍野図書館の成立と発展との将来に関わりては、できるだけの力を尽くしたしと存じおり候。なお、ご依頼の校歌は自分のほんとうの愛より制作いたしたく、明春になり申すべく候。ご壮健を祈り候。大正11年11月17日>
            


 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?