江藤淳『妻と私』・遺言と石原慎太郎の追悼文

 在米占領文書研究をめぐって親交の深かった作家の江藤淳氏の著書『妻と私』(文藝春秋、平成11年)は生涯忘れられない一冊である。江藤氏とは米留学前から親交があったが、メリーランド州立大大学院に留学後は、同大マッケルディン図書館のプランゲ文庫所蔵の検閲文書について情報交換を行い、江藤氏は同文書の中から『戦艦大和の最期』の検閲資料を発見し、バージニア州にあるマッカーサー記念館で「私は護国の英霊に導かれてこの検閲資料を発見した」と誇らしげに発表された。
 同検閲文書はプランゲ文庫の地下の図書室に保管され、大学院生のバイトとして、私は同検閲文書の整理もしていたので、江藤氏がごく短期間に重要資料を発見されたのには驚いた。確かに護国の英霊に導かれたに違いないと思われたが、一方で、なぜ私は長い間占領文書研究に没頭しているのに、護国の英霊に導かれないんだという焦燥感を抱かずにはおれなかったことを鮮明に記憶している。キラキラ輝いている江藤氏の姿とは裏腹のみじめな自分に落ち込んでしまったのである。
 WGIPの原文書の一部は江藤氏と共有できたが、神道指令の成立過程や教育勅語の廃止過程に関する重要文書の発見は、妻が日本に帰って、毎日三食、明星ラーメンとシイタケ、乾燥ワカメを食べながら、誰にも会わないで占領文書研究に没頭した最後の半年間(3年間の内)で発見したもので、今も髭を伸ばしているのは、その時のハングリー精神を忘れないためである。
 戦後五十年を迎える年の年末に散髪屋で髭をバッサリそったが、帰宅すると妻が思わず「額縁の無い絵みたい」と言ってショックを受けた。慌ててまた伸ばしたので、新学期の学生には気づかれなかった。沖縄で明星大学のスクーリングの授業があり、クリスマスの日に「教育相談」の授業を担当した夕食時に撮影した唯一の「髭の無いレア写真」があるだけで、「額縁の無い絵」の正体は誰にも知られていない。

●江藤淳『妻と私』
 『妻と私』によれば、平成9年の年末、江藤は年賀状を書く気力もなくなって、循環器系の専門の病院に入院して検査を受けるほどに弱っていた。妻も「脳内出血」と診断され、余命3ヶ月の末期がんの宣告を突然受け、江藤横浜東急ホテルに泊まりこんで、「毎日少しでも長時間家内のそばにいることにしよう」と心に決めた。
 主治医から「今からそんなに飛ばしていたら、御主人のほうが参ってしまいますよ」と忠告されたが、妻の容体が悪化し、ついに泊まり込みを決意し、その支度をして病院に行き、簡易ベッドを広げて、「今夜は久しぶりで一緒に休もうね」と妻に語ると、「一瞬両の眼を輝かせ、こぼれるような笑みを浮かべた。あの歓喜の表情を、私は一生忘れることができない」と江藤はは記している。以下、『妻と私』から抜粋する。

<入院する前、家にいるときとは違って、このとき家内と私のあいだに流れているのは、日常的な時間ではなかった。それはいわば、生と死の時間とでも言うべきものであった。…一度も癌の話もしなければ、死を話題にすることもなかった。家政の整理についても、それに附随する法律的な問題についても、何一つ相談しなかった。私たちは、ただ一緒にいた。一緒にいることが、何よりも大切なのであった。何故なら、私たちの別れは遠くないからである。そのときまでは、できるだけ一緒にいたい。専門医の予測した長くて半年という期限は、既に二カ月も過ぎていた。こうしてまだ一緒にいられるのが、ほとんど奇蹟のように感じられた。…死の瞬間までは家内を孤独にしたくない。私という者だけはそばにいて、どんなときでも一人ぼっちではないと信じてもらいたい…ナイヤガラの瀑布が落下する一歩手前の水の上で、小舟を漕いでいるようなものだ…家内が突然、「息が止まりそう。もう駄目…・と力ない声で訴えた。「駄目ということはないだろう」と、私は声を励まして耳許で呼び掛けた。「今までに辛いことは何度もあったけれども、二人で一緒に力を合わせて乗り切ってきたじゃないか。駄目だなんていわないで、今度も二人で乗り切ろう、ぼくがチャンと附いているいるんだから」…家内は、「もうなにもかも、みんな終わってしまった」と、呟いた。その寂寥に充ちた深い響きに対して、私は返す言葉がなかった。実は私もまた、どうすることもできぬまま「みんな終わってしまった」ことを、そのとき心の底から思い知らされていたからである。私は、しびれている右手も含めて、彼女の両手をじっと握りしめているだけだった。ホテルに戻っても、青変わらず二時間おきに眼が覚めてしまう夜がつづいていた…家内がどれほど昏睡状態をつづけていても、「慶子、おはよう。今日は十月二十九日の木曜だよ」というふうに、必ず声を掛けた。慶子は、無言で語っていた。四十一年半に及ぼうとしている二人の結婚生活は、決して無意味ではなかった、いた素晴らしいものだったということを。慶子の笑顔は変わらず、私も自分が笑みを浮かべていることを自覚していた。>

●妻の死後の江藤淳の心中
 同書には、妻の死後の江藤氏の心中も次のように赤裸々に綴られている。

<葬儀屋との相談が現実にはじまってみると、私はたちまちその煩雑さに堪えられなくなって行った。自分はまだ深海の底のような、あの生と死の時間のなかにいるのに、葬儀に関わる一切は日常性と実務の時間で埋め尽くされていたからである。…ほとんど絶望的な自覚が、今まで一度も感じたことのないこの深い疲労感の底には潜んでいまたでなくなってまたでなくなっていた出なくなっていた。疲労感は更に深まり、神経が疲れているだけではなく自分の身体自体が、深く病んでいることがわかった。死の時間は、家内が去っても私に取り憑いたままで、離れようとしないのであった。家内とはやがて別れなければならない。そのときは自分が日常的な実務の時間に帰るときだ、と思っていたのは、どうやら軽薄極まる早計であったらしい。何故なら、死の時間と日常的な実務の時間とは、そう簡単に往復できるような構造にはできていないらしいからである。いったん死の時間に深く浸り、そこに
独り取り残されてまだ生きている人間ほど。絶望的なものはない。家内の生命が尽きていない限りは、生命の尽きるそのときまで一緒にいる、決して家内を一人ぼっちにはしない、という明確な目標があったのに、家内が逝ってしまった今となっては、そんな目標などどこにもありはしない。ただ私だけの死の時間が、私の心身を捕え、意味のない死に向かって刻一刻と私を追い込んで行くのである。…あの堪えがたい疲労が、私を内側から崩壊させようととしている。仮通夜のあとのお浄めの席で、ふと呟きの声を漏らしてしまった。「なんだか妙にくたびれた。ぼくもできることならこのまま、慶子のいるところへ行ってしまいたいな」
 すると、打てば響くという調子で、それをたしなめる声が飛んで来た。「そんな弱気なことをおっしゃってはいけません。奥様がいらっしゃらなくなっても、先生を頼りに生きている人たちが何人もいるんですから。>

 平成11年7月21日、江藤淳は次のような遺言を遺して自殺した。

<心身の不自由は進み、病苦は耐え難し。去る6月10日、脳梗塞の発作に
遭いし以来の江藤淳は形骸に過ぎず。自ら処決して形骸を断ずる所以なり。乞う、諸君よ、これを諒とせられよ。

●石原慎太郎の追悼文「さらば、友よ、江藤よ!」
 江藤の友人であった石原慎太郎氏は次のような追悼文を寄せている。

<日本の無条件降伏という強引にしつらえられた虚構への告発や、その下に行われた徹底した日本の解体のための施策たる戦後のGHQにより検閲への告発、その呪縛から未だに自らを解き放つことの出来ずにいる日本の言論の資質への批判。それらは彼自身の肉と血の内に溶け込んで在る、誰よりも彼自身が強く意識せざる得ない国家に関わる主題としてあったのだ。…そうした彼の言論の活動を支えていたのが、子供を持たぬ夫婦故にも彼が容易に、幼くして別れた母親への思慕を代行していた慶子夫人だった。そして彼女の死はすなわち、文士としての江藤の人生を決定的に支えていたものの喪失だった。…巨きな喪失の後の痛みの中での放心の折々、時としては死を願ったりもして激しく揺らぎながら耐えてきていた、身寄りも無く他に失うものは自らしかないような孤独に老いた男にとって、あの久しぶりの天変地異は通り魔のように彼を引き裂き、死に向かって誘い追い落としたに違いない。…典型的な妻恋いの末の後追い心中でしかない。それを他にどう脚色も説明も出来はしまいし、それはその限りで痛ましくも、美しい。それは彼の自殺が彼の言葉たちと同じように一貫してあくまで彼の個人的な、極めて私的な主題によるものだったが故に他なるまい。そして、美しい限りで、それは、我々が失ったものの大きさをまったく違う次元で十分に贖ってくれるはずではないか。彼から、「諸君よ、これを諒とせられよ」と請われて、彼を愛した者たちとして、何を拒むことが出来るだろうか。
 

 
 
 

 
 
 

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