「日々の公演2」レポートその6

このレポートも残すところあと2回。

ここまで読んでくれた人!!

長い時間、自分の自意識に付き合わせてしまって、申し訳ないね!!!!

3月5日(土)

東京の気温 18/4
東京の新規感染者数 1万806人

役者役12人(代役2人)/観客役1人
生西さん 鈴木さん

だんだんと暖かくなってきた。

冬から春へと、人びとは、あざやかにうつりかわっていった。自分は、相変わらず赤いダウンを着ていた。2022冬は、赤いダウンだった。

少しだけ、ワークショップ前日までの経緯を書く。自分は、六回目のワークショップの日付を1週間勘違いしていた。

なので、急いで有給を取った。読書会も蹴った。(ワークショップは7回で2万5千円なので、1回休んだら3751円損することになる)

自分は、たまに、こういうミスをやらかしてしまう。だけど、大体なんとかなってしまう。「あんまり良くないことだ」とは思う。

わざとやってるわけじゃない、とはいえ、「問題発生→問題解決」のフローに快感をおぼえる自分もいる。とことん主体的だ。

不登校だった時も、自分の意思をかたくなに突き通していたから不登校できたし、ニートの時も同じで、自分は主体的だった。加害者か、被害者かでいえば、加害者だった。

勿論、現実問題、「不登校/ニートをやることが出来る環境だった」という(ある種めぐまれた)事実は大きいけれど、とにかく「学校は不快だから行きたくない」と、自分で決めて、自分で決めたことを動かさなかった。(当時こんなにハッキリと言語化する能力も、強さも無かったが)(今の時代なら、おそらくASD診断が下っていただろう…)

そのあとの人生で、運良く不快感との付き合い方を学んで、なんとか今日まで生き延びてこれた。それでも、「自分の意思を尊重してほしい!」と、心が叫んでいる事がある。

演者役として、どこまでも主体的でありたい自分は「社会の歯車になれなかった」という後ろめたさを、システムの外側にはみ出すことで開き直っているのかもしれない。

だけど同時に、自分の痛さを痛むことや、不快を不快むことも忘れたくない。被害者になる扉の鍵は、いつでも開けておきたい。

自分は自分だし、他人は他人。同じことをしても、同じことをされても、受けとる感覚は人によってちがう。身体の歴史がちがうんだから、ちがって当たり前だと思う。

ワークショップの演者役は12人いて、みんな違う身体をしていて、みんな、ちがう世界を見ている。

ただひとつ決まっているのは19時15分に幕を上げて、公演をする事だけだ。そこをステージと見立てて、鈴木さんが書いた台本を、それぞれが感じた解釈で演じていく。

そんな、フクザツなワークショップのレポートを、これから書くわけなのです。(今回もイントロが長くなってしまってスマン)

ワークショップ全体の流れとしては、前回までと同様、本読み→リハーサル→公演→講評→撤収。

六回目の公演は、(演者役)欠席者が3名で、代役が3名だったので、人数がぴったり!
(これまでのように「誰かが1人2役を演じる」という、わかりづらい状況を避けることが出来た!)

演目は「演出」「四季」「うたう」「死なない程度に」「再演」「真っ暗闇」の6本。後半の3本は新作だ。

個人的なトラブルが2つあった。

1つは、なぜか自分の元に台本が届いていなかったトラブル。

ワークショップ6回目の台本は、3月1日に生西さんから「日々の公演2 追加台本」というメールが届いて、その中に入っていた。

だけど、自分は「5本」入っている筈の添付ファイルのうち、「3本」しか見れなかった。しかも、その事実に気付いたのが当日。現場で、「じゃあ、やってみましょうか」ってタイミングで、自分は、おや、「おやおやっ?」って、なった。きょろきょろ、した。

2つ目は、鹿島茂の古本屋さん(「PASSAGE」のプレオープン)を、18時30分に予約してしまったことで起こったトラブルだ。

先に弁明をすると、自分は千葉にという、田舎に住んでいる。なので、東京に出る時は、貧乏根性で、ついつい予定を詰め込んでしまう。

鹿島茂の古本屋のプレオープンは、速水健朗が流しているツイートで知った。自分は、「ワークショップの休憩の合間に行けるかなー」と思って、衝動的に、安易な気持ちで予約してしまった。だが、思いのほか、練習が長引いてしまったので、練習の途中、「ちょっとスイマセン…」と言って、練習から抜ける事になった。

以上が、個人的なトラブル2つである。

この日は、練習をいっぱいした。

本読みから、徹底してやった。

生西さんは、代役の演者さんが「役の感じ」をつかむまで、何度もリテイクしていた。演者さんは手間取っていたけれど、何回も反復しているうちに、だんだんと「いい感じ」になってきた。(本番の公演は、ちょっと鳥肌が立つくらいよかった)

自分もまた、同じ台本を何回も繰り返しているうちに、少しずつ変化していった気がする。なんとなく、「気持ちを作る流れ」がつかめてきたというか、「進むべき方向」がわかっていく感じ…。(ま、再現がヘタなので揺らいでしまう部分や、「惰性で演じてしまっていないか?」という不安はあったけど)

後半の3本は(「死なない程度に」「再演」「真っ暗闇」)、今回、新しく追加されたシーンなので、何回か試して演ってみて、トライ&エラーで演出を固めていった。(その結果、練習時間が伸びてしまった。自分は「真っ暗闇」の練習の最中やむなく抜けることになる)

そして、自分が練習から消えているあいだに、開演時間を30分遅らせる事が決まっていた。

19時45分まで、休憩時間が出来た。

休憩中に、ウクレレで「ぼくたちの失敗」や「生活の柄」を歌っていたら「良い曲ですよね」と声をかけられた。自分は「喜びの舞」を踊りたいぐらい嬉しかったが、「喜びの舞」の踊り方がわからないので、踊らなかった。誰か、「喜びの舞」の踊り方を教えてくれ。

そんなこんなで、本番を迎え、公演をした。
戯曲を通しでやるのは本番が初めてだった。じっくりと間をとりながら、6本に膨らんだシーンを演じた。結果、全部で1時間のお芝居になった。

特に、「再演」や、「真っ暗闇」(のラストのセリフ)は、「圧巻!」ってなった。

どこが良かったを語るのは野暮天なので、他の人に任せることにする。(あるい別の機会にでも)

ただひとつ、観客役の方が、「怖くて泣きそうになってしまった」と語っていて、「観客役(の人)からは、そう観えたのか」と、思った。自分は演者役だったので、舞台を、横から観ていた。「とても美しい景色だ」と思っていた。

その他、印象的だった出来事について。

「四季」の中で、新しく追加された演出。

「演者の1名が(5歩ぐらい?)前に出て、ものを食う場面」がある。自分は公演中、自分の役に潜ろうとしていたので、「なんかやってるなー」と思い込もうと、集中していた。(あえて観ないようにしていたのだ)

そしたら、講評の中で、演者さんが「前に歩いてものを食うシーンでは大便を漏らしているイメージで演じていました」と語っていた。それを聞いて、自分は「へえー」と思った。

「何を思い描きながら演じるか」、「イメージを共有する」といったキーワードは、「日々の公演2」の中で、よく議題にあがるテーマだった。

自分は「なんで、そんなことに、こだわるのかなー」と思っていた。(自分は、他の演劇や演劇ワークショップに参加したことが無いので、それがどのくらい平均的な事なのかもわからない)

極端に言えば、自分は(表現は)表象されるものが全てであり「気持ちを作る」みたいな、作家の内面性は、どちらかと言えば、なおざりにしても構わない、と思っているふしがある。
(トランス型のアーティストは好きだけど、それは別問題で、無意識の領分はコントロール不可能だと思っている)

だけど、「大便を漏らしているイメージ」という言葉のイメージで、内面を作ることと、表象されるものとの関係を、なんとなく、つかめたような気がすは。

自分は、人間の内面にはとても興味がある。人間の内面を知ることが出来れば、モテるかもしれないからだ。


と、ここまで書いて、筆を置いた。
そして1回目のレポートから読みなおしてみた。

自分は悩んでいるのかな。
同じところをグルグル回っているような気がする…。

だけど、面白い文章を書けたとも思っている。よく書けているよ。面白いぞおれ!

このレポートを書こうと思ったのは、きっかけになった出来事がある。その一つは、菊地さんから「高橋利明は、自意識がガチャガチャしている」と言われた(正確には書かれた)からだ。

確かに、ガチャガチャしている!!

なので、このレポートでは、「本音と建前の間にある、ふわっとした領域を創造する」という課題に、書かされるかのように、挑戦してみた。そうすることで、自分から目線をずらして、「本音」と「建前」のあいだにある、「自分」と「他者」のあいだにある、「壁のようなもの」を作ることが出来るのではないかと思ったからだ。

だけど、それは、あんまり成功しなかった。笑

まあ、多少は進歩したと思う。
だから、いいんだけどさ。

自分は「壁を作らない」のが得意なのだと思う。自分の世界を守らないことによって、自分の世界を創っている。(そして、本当の「本当」は自分の世界を守っている。「自己開示しているかのように見せかけて、他者を遠ざけている」というスキリング)

自分は、読書会や、哲学対話、オープンダイアローグでも、この調子なので、優しい人たちから面白がられたり、たまに嫌われたりする。

自分は、こじらせているし、ばかだし、ある意味では、強い。だけど、全てをわかってもらおうとしてしまうので、上手くやれない。とても帝国的な個人なので、外交が苦手だ。

哲学対話と、オープンダイアローグはよく似ていて、どちらも本音的に「思考/無意識をダダ漏れ」にすることが、「ヨシ」とされる所がある。

そういう「社会では言いづらいことを言う(社会的な抑圧を振りきる)」ことは「ケア」にも「(草の根的な)社会運動」にもなる。
これからも、どんどん推進されていくだろう。

一方で、ダダ漏れは危ない。

哲学対話やオープンダイアログを「危険だ」という人たちもいる。専門家ほど「危険だ」という人が多い。

哲学対話が炎上する、ちょっと前の話。

2020年の年末、「欲望会議」というイベントで「哲学対話は危険だと思いますか?」という話が出てきた。

それに対して、千葉さんは「哲学対話は、剥き出しのディスクールなので、分析家なみのキャッチャーが居ないと危ないですよ」と言っていた。

その時は「本当にそうかあ?」と思っていたけど、今は「本当にそうだから炎上したのかも」とも思う。

自己と他者の「思考/無意識」をバチバチにやるのは、確かに。危ないかもしれない。

比べるのもおこがましいけど、二村さんは、とても外交の技術がある人だな、と思う。

でも、それは自分の観察と分析でしかない。

二村さんのふるまいを見て、感じたり、考えることは、二村さんが存在することには、あんまり関係がない。二村さんの言葉は、本音でも建前でもなく、つまり本音でも建前でもあり、「二村さんがこれまで存在してきた」ということ。そして「今ここに存在し、行為している」ことしか、わからない。

「他者」に対しては、観察と分析しか出来ない。
逆に言えば、観察や分析は出来る。

それは、とても楽しい営為である。
「楽しいこと」は良いことだと思う。

ただ、「この人はこうだから、こうである」みたいな因果律を立てることは、「その人が存在する」という絶対的な事実と比べたら、大した意味がない。(どうせ、誰にもわからないから)

大事なのはそこから先の事なんだと思う。

「哲学対話」という環境で脳内のエクストリームな思考をだだ漏れにすることも、「演劇」という環境で演技をすることも、「人間が行為をする」というカテゴリーでは同じだ。

その行為が何をうながすか。
そして、何をうながす為に行為をするのか。
実践や、創作においては、それが大事なんだと思う。

自分で書いてて意味不明になってきたが。

次回は最終回のレポートです。(第七回に続く)

PS、菊地さん、二村さん、勝手にお名前を出させていただきスイマセン。今度お会いすることがあれば何か……

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