「日々の公演2」レポートその7

3月23日(土)

東京の気温 10/0
東京の新規感染者数 6430人

役者役12人(代役1人)/観客役5人
生西さん 鈴木さん

3月の後半。

いちど暖かくなって、ふたたび寒くなった。

この日は風が強かった。
空は曇っていた。

自分は、午前8時ぐらいに目を覚ます。

11時ごろ家を出て、電車で移動した。スマホを使って、文章を書いた。(ちょうど、このレポートの4回目あたりを書いていた)

いつものように京成線で船橋まで行き、総武線に乗りかえる。そして水道橋の改札を出る刹那。

PASMOがない。

自分は、ものをよく落とす。

以前、香典袋を落としてしまい警察から電話がかかってきた事もある。(3千円入っていた)

落とすことが多いけど、なんだかんだで見つかっちゃう。だから、どこかお気楽に構えているところもある。という、言い訳はさておき。

PASMOに関しても、心の内では「まあ見つかるっしょ!」と思っていた。(結局、見つからなかった…)

PASMOには、1500円入っていた。

気持ち的に、「もっと反省した方がいいのではないか?」「いやいや後悔しても仕方ないよな」「つか、落としたこと自体がショック」「1500円入っていたのに…」云々、はんもんした。

ショックはあったけど、メタ的な視点で、「この状況を、どういう気持ちで受け止めたらいいの?」って考えていた。

翌日「PASMO」という詩を書いた。

「PASMO」 高橋利明


詩を書くので読んでほしい
「PASMO」というタイトルの詩なので
電車を利用している人には読みやすいと思う

つくづく自分がイヤになるぜ
またPASMOを落としてしまった
これで2回目だ

おれは、切符も含めると
人生で5回以上、乗車券を落としている

前回、PASMOを落とした時は
親切な人が駅員さんに届けてくれた

神保町駅から電話がかかってきて
その時
PASMOを落としたことに気づいたのだった

今回は電話がかかってこないから
自分からJR落としものセンターに電話をかけた
そしたら、「そのような紛失物は届いてない」
と言われた

ちくしょう 俺のPASMO
悪いやつに拾われちまったのか?
くやしい
1500円入っていたんだ
絶望するほどの金額ではないけれど
今はくやしがるべき場面だ
くやしがらせて欲しい

いっそ虚無僧になって
道ゆく人から1500円もらって
すぐに虚無僧やめたい

だけど虚無僧はVTuberとか見ないだろうな
自分の好きなVTuberは笑い方がすごい下品だ
下ネタしか言わないし
金遣いも極端で
貧乏くさい食べものの話をする
(こないだは「納豆たべた」と言っていた)
そのくせ、投資で4桁万円溶かしている

もっとも
貧乏くさい食べものの話をするのは
コア視聴者が共感しやすい話題だから
戦略的に行なっているのかもしれない

また、こんな話してても
1500円は返ってこないんだけどね

このように
人間はPASMOを落とした話に当てつけて
好きなVTuberの話をしてしまうことがある

この詩は人間のそういうアレを表現している



ワークショップの話を書く。

この日は最初から立ち稽古だった。

これまで、積み上げてきた演出をやめたり。新しいアイデアを試したり。今回も、トライ&エラーで本番に向けて劇を作っていった。

練習は、公演の通し順に、「演出」、「四季」、「うたう」、「死なない程度に」、「再演」、「真っ暗闇」、という順番で練習していった。

「再演」と「真っ暗闇」は、セリフ・ト書きが追加されていた。
鈴木さんらは、「マイルドになってしまうかもしれない」と、心配する声もあったけど、自分は新しいverの方が、ダイレクトに痛みが伝わってきて、「よいな」と思った。

「真っ暗闇」にも、ト書きが増えていた。ト書きが増えることによって、何に向かっているのか、わかりやすくなった気がする。

「真っ暗闇」というシーンについて、少し説明する。

「真っ暗闇」というシーンは、第一回の台本を改稿したものだ。「真っ暗闇だ、真っ暗闇って、、」、というセリフからはじまる。

生西さんと、鈴木さんは、その第一声(「真っ暗闇だ、、」)に、やたらこだわっていた。

「最初の『真っ暗闇だ、』というセリフ、会場を本当に真っ暗闇にするイメージで言ってみてください」と指示を出していた。

会場(美学校スタジオ)は、真っ暗闇ではない。
ちょっと明るめの白い部屋だ。

自分は「電気を消して、本当に真っ暗闇にしてみたら…?」と言おうと思ったけど、ぎりぎりの所で踏みとどまっていた。

美学校スタジオは、縦長の部屋で、普段は机やホワイトボードが置かれている。「日々の公演2」をやる時は、ものをとっぱらって、すっきりさせていた状態で、練習や本番をしていた。

壁には木板が貼ってある。
木板に、釘を刺したあとが残っている。

そんな空間で7回、お芝居をしてきたのだ。

演劇の最中は別の空間をイメージする。

「何かをイメージする」という、ワークショップで一貫して考えてきたテーマ(?)については前回書いた。「日々の公演2」の、初回からよく議題に上るテーマだった。自分は芝居畑でも、アート畑でもない(へたしたら作り手ですらない)から、みんなが何故そこに拘るのか、よくわからなかった。(これも前回書いた。自分は、表象されるものが全てだと思っているふしがある、という話)

でも、「真っ暗闇」冒頭のリテイクを何回も聞きながら、われわれが何をしようとしているか、最後の最後に、少しだけわかった気がした。

とはいえ、「実際イメージの世界に深く潜ることが出来るか?」と問われれば、自分はまだまだだと感じる。

練習が終わったのが17時30分過ぎ。

公演時間まで少し長めの休憩をとった。

ちょうど休憩に入ったタイミングで大雨が降ってきた。
コンビニに出かけた人がびしょ濡れになって帰ってきて、みんなで「わー大丈夫??」っていうやつをやった。

自分はスタジオにこもって、他の演者役の人に、MVに使う映像を撮影してもらったり、手持ちのウクレレで柴田聡子をデュエットしたりした。

自分は「自分の気持ち悪さ」には自覚的になった。他者に近寄りすぎないように、サッと身を引くようになった。

そして、「この思い出があれば生きていける。人生には何度かそういう場面がある。今がその1つだったのかもしれない」と、センチで気持ち悪い感情にひたった。

自分で自分にツッコムのもアレだけど「勝手にやってろ」って感じだ。そんな自分のこと、絶対大きらいにならないけど。

この日は最終回だったので、生西さんが観客を呼んで公演をした。これまでも「観客役」はいたけれど、(いない回もあったけど)、本物の「観客」に向けて公演をするのは初めてだった。

最終回の公演は、全体的に重たい雰囲気があった。シリアスなベクトルでテンションが高かったというべきか。(講評で「低気圧モードだった」という意見があって「そうかあ?」と思ったけど、そういう見方をする人もいるのかもしれない)

観客に、われわれが見ていたイメージや、劇の内容が伝わっていたのだろうか?

おそらく、半分も伝わっていなかった。そんな気がする。でも、伝わらなくてもいい。そんな気もする。

そして、演者役の間には、それなりに了解があった。(というのも、最後のセリフが「光刺すエンド」を示すために発話されていることを、自分は感じ取ることが出来たから)

あと、講評の中で「マスクを外して演ったら、また違う印象になりそう」という意見が出ていた。言われてみれば「初回の公演ではマスクをはずしてやったなー」みたいなことを思い出して、しみじみとした。(初回は照明も使ってたっけ、とかね)

観客のひとりが、自分の演技を「ロマンティックな感じがした」と評してくれた。

「いや…、嬉しいです。自分がワークショップに参加した動機はモテたいからなので嬉しいです」

「エエー、そうだったんですか!」

「でも、それが全部ではないでしょう?」

「そうですね。半分くらい? いや、半分以上かな…」

「まあまあまあ」

みたいな、やりとりがあった。

自分が「モテたい」という思いは切実である。

でも一体何をして「モテる」というのか。考えれば考えるほどわからなくなる。(手っ取り早くいえば、恋人がほしい、セックスがしたい、ということなのだが)

自分には足場がなくて、足場がない人間は、足場がある人間よりも優れていなけれればならない。「優れた人間とは何か?」というのも、考えだすとわからない。

・変わりづけたい
・恐れず
・人と関わって生きていたい

そのために、ワークショップに参加したのかもしれない。

「日々の公演2」が終わったいま、

「これにすがるよりしょうがなかった」
「これでよかったのだ」

その2つが同居している。

エピローグ


自分には、好きなハメ撮りAVがある。
その動画では、ラブホな照明を落として、暗い部屋でセックスをしている。

「日々の公演2」が終わったあと、その動画をオカズにオナニーをした。自分は、その映像から暗闇を感じとることが出来た。「やれやれ。」僕は射精した。(完)

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