「くらしのアナキズム」読了

私は「個人主権」や「自律分散型社会」に関心がある。そのために本著のタイトルを見ただけで、分散型社会の構築の具体的な解決策につながるのではないかと期待を持って読み始めた。

一般的(かどうかは知らないが)に「アナキズム=無政府主義」というのは既存の政府をぶっ壊して、権力に対抗する革命家が作る次の社会をいうというイメージを持っている。大きな政治よりも小さく分割された社会という形だ。

3.11や新型コロナを経験した私たちは、「公共」という仕組みは、政府が与えてくれるものではなく、自分たちである程度なんとかしなければならないし、なんとかなるものだという意識が生まれてきている。

本著では、そうした認識を持った私たちはすでに「アナキスト」だという。

「二十一世紀のアナキストは政府の転覆を謀る必要はない。自助をかかげ、自粛にたよる政府のもとで、ぼくらは現にアナキストとして生きている」(p12)

しかしそうは言われても、僕らはどうすればいいのだろうか。「公共」を作るってどういうことなのか。そんなことやったこともないし、手法も知らない。

本著には著者が経験したエチオピアの事例や、著者が勤務する岡山県の話などが出てくるが、公共を作るためのキーワードは「対話」「無駄(合理化の否定)」だ。

「対話」は多くのステークホルダーがいる中で「同意」を得るために必要なものだ。レヴィ・ストロースが言うように、「同意」は権力の源だと言うが問題はその同意を得るための手法だ。

この「同意」を得るために必要なのは「対話」だ。

本著で引用される宮本常一の「忘れられた日本人」に出てくる「寄り合い」では、「納得行くまで話しあう」のだと言う。そのため非常に時間がかかり、無駄も生まれる。しかし、ここには「勝ち負けがない」。多数決によって生まれる敗者がいない。

これは一見ポピュリズム的になってしまうのかもしれない。

しかし、しっかりと、じっくりと対話を重ねた先に構築されたシステムであればいいのではないかと本著は示す。

反対に「無駄を排除した効率性に基づいたシステムはいざと言う時に脆い」のだと言う。

著者のフィールドではあるエチオピアには「タチャウト」と言う文化がある。これは誰かと誰かが時間を過ごしているときに無言になると、どちらとも関係なくいきなり「タチャウト!」と叫ぶの出そうだ。日本語にすると「話そうよ!」と言うことなのだそうだ。

その言葉で特にキャッチボールが生まれるわけではないのだそうだが、何か対話を始めるきっかけを作る文化があるのは素晴らしいと感じた。

通読して、本著には特に具体的な解決策が示されているわけではない。そもそもそんな解決策が提示されたところで真似したりしてもうまくいきっこないだろう。

それよりも、まずは「サボったり」「仲間を見つけたり」「対話」をしたりしながら、現状に意義を唱えることが大事だということを示してくれた良書だった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?