「手の倫理」読了

最近気になっていた伊藤亜紗さんの「手の倫理」を読了した。仕事柄、ITやデジタル技術の書籍を読むことが多い中で、触覚に関する本にはデジタルの内容は出てこないことが新鮮だった。

コミュニケーションが一方的な「さわる」ということに対して、双方向的で「生成的」な「ふれる」ということを物理的に紐解きながら、タイトルにあるように倫理的に図式化しながら解説した良書だった。

僕としては「信頼」というところを興味深く読んだ。

本著には、19歳から完全に目が見えなくなった西島さんが経験した「無責任な優しさ」に関する次の記述がある。

「無責任な優しさで生きているんだって思っていたんです。責任がないから優しくできるんだって。(中略)私が生き残るうえで一番重要な人間関係はどれだって思ったときに、ばったり街であった人が一番、実際のところは、自分の生活を救ってくれているはずだと思うんです」(p106)

こうした考えから西島さんは「依存先を街中に分散させることにした」という。しかし、著書の中ではこの「無責任な優しさ」を信じ続けていくうちに、「特定の人を信頼することができなくなってしまった」。信頼を無理やり生み出すために、相手を深く信じることに繋がらなくなってしまったためだ。

西島さんはこのために夫との生活に苦悩する。この緊張を解くまでに3年必要だったという。そして信頼を乗り越えて「安心」にたどり着く。

最近のブロックチェーンや経済主権の話では「トラストレス」が前提となっている。「信頼がない」ことというのはつまり、誰かが管理しなくても価値が保たれているということで、よくも悪くも「信頼」はないことが「安心」に繋がっているということだ。

デジタルの世界ではこの誰かに管理されずにひとりでに動くというのは個人の主権とつながる。誰かを信頼しないほうが個人が活きるのだ。しかし、これはある種予定調和的な動きでもある。

僕がは、おそらく世界の仕組みでは誰かを信頼し切らない方がうまく回りやすくなると考えている。もしくは「依存先を分散する」ことで、どこかがおかしくなっても、システムが回り続けることができる。

西島さんは街中での「信頼」と夫への「信頼」を頭では分かっていても区別できなかった。しかしいずれ克服した。西島さんはどうやって区別を克服していったのだろうか。

これはデジタルの世界でも起こりうることだ。現実で起きていることとデジタルの世界が混同してしまうというのはありうる。これを区別し、それぞれを独自に深く生かして生活に組み込んでいくというのは「ふれる」要素がないデジタルの方が区別ができていくのだろうか。

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