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本人の思いを超えるもの

以前、研究者仲間が、休日にサイクリングに行ってお店で武蔵野うどんを食べた話をSNSに投稿していた。
「土手の菜の花が満開ですばらしかった」とのことで、青空と菜の花畑の上下の青と黄の対比が美しい写真と共に。
それがちょうど2022年4月。ロシアによるウクライナ侵攻が始まって1か月半ほど経ったときのことだ。

英語教育が専門でさまざまな国出身の留学生の授業も担当されてきたその先生のこと。
きっとこれは、直接言葉には出さない形で、今の国際情勢への批判と平和への希求を込められたのだろうなと、そのメッセージ性および伝え方のセンスに脱帽した旨、コメント欄に書き込んだ。

が、なんてこったい、実際にはその先生に特にそんな意図はなかったらしく(写真がウクライナ国旗風になったのは偶然)、「単なる休日食いしん坊投稿のつもりでした」とカミングアウトされ、ふたりでアハハと笑い合った。

さて。
こんなふうに、周りで見ている者の側が、本人の意図以上のものを汲みとるということは、しばしば起こる。

授業を見せてもらって授業者と一緒に振り返りを行うときなど、まさにそうだ。

あそこで先生、○○されていましたよね。きっとあれ、……という考えでされてるんだろうなあと思って、すごいなあと思って見ていました。

などとこちらが見て取ったことを伝えると、

あ、いや、そこまで考えていませんでした。けれども、そんなふうに受け取ってもらえるならうれしいです。

といった返答が返ってくることがある。
これは豊かな行為だ。当人の意図を超えて意味が生み出されるのだから。

そういえば私自身もつい先日経験した。
昨年私が行ったあるワークショップに関して、報告書ができあがり、ある方が「参加記録」をまとめてくださっているのだが、そのなかで、ワークショップ冒頭での私の自己紹介に関して、

○○のパフェを食べたエピソードが語られ、場から笑いが起きた。この紹介は、場をなごます意味もあったのだろう。

と記述してくださっている。

いや、私、そこまでちゃんと「場をなごます」なんて考えてなかった気がするなあ。なんとなく、ただしゃべりたかったからしゃべっただけのような。けれど、こうやって言ってもらうと、もしかしたらそんな思いも無意識のうちにあったのかもなあ。
…という気分になってくる。

授業者が明確に意図していたものを超えて、授業者の行為がもつ意味や本人が自覚していなかった思いが引き出される。
このことに授業者と参観者とが協働で取り組めるのは、どちらの側にとっても幸せなことだ。自分一人では得られない気づきが得られるのだから。

一方、しばしば目にする、計画-実行-評価-改善モデルに基づいた授業の「振り返り」。そこではもっぱら、授業者の意図がどれだけ達成できたか、そのために手立てがどれだけ有効だったかという観点から授業が眺められ、やりとりがなされる。
なんと貧しいことだろう、と思う。
対話を通じて授業者の意図を超えたものが浮かびあがってきたり、授業者の意図どおりにいかないことから何かが見えてきたりすることこそが、リフレクションの醍醐味だろうに。
そうした醍醐味を味わえるような場を来年度もつくりだしていこう。

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