闇の先へ19

この「闇の先へ」と題された連続の文章は、今俺が書いている本が書き上がったタイミングで全て非公開になる予定でいる。そして実はもう、ほとんど脱稿している。一つ前の18を書いてから随分間に空いたのは、本の原稿が書き上がったからだ。この文章は、本の原稿の副産物、思考と感情の「澱」と「淀」を記したものだから、必然的に、本体の方が無ければこちら側が生成されないのは理にかなっている。もうそろそろこの「副産物」は消え去ることになる。

本を書いて良かったと思う。この数年自分が考え続けてきたことを文字にすることができた。10月の半ば頃に描き始めて、12月の終わり頃まで、およそ2ヶ月半ほどの時間。人によっては短いと見る人も多いかもしれないが、俺にとっては異例の長さで「書く」ということに時間を費やした。それは本当に苦しい体験だったが、同時に、喜ばしい時間でもあった。久しぶりに自分の底の浅さと、思考の薄さを直視することができたからだ。そしてそれでも、それを認めて、少しずつ言葉を積み上げることで、自分の立っている大地をほんの少しだけ硬く、広くすることができた。ぬかるんだ獣道が、わずかながら、しっかりとした歩道へと変わっていく予感を得ることができた。予想以上の良い結果になって良かったと思う。

元々書くのが得意ではなかった。というか、実は今でもあまり得意ではない。そういうことを言うと、人からは「嘘やろ」とか「はいはい謙遜」と言われるのだが、本当に苦手なのだ。だから、大学に入ったあたりから意識的に、徹底的に、「文章を書く」と言うことを考えて、そして自分の声を作り上げていった。いわば二次的、後天的に獲得された特性で、本当に言葉を使うのが上手いわけではない。卒業論文は5時間ほどで書き上げたし、修士論文も最初の一本め(落とされたけど)は、4日ほどで書き上げることができた。それは、「結論がわかっている文章」だからだ。そうした文章を書くことにかけては、おそらく、本当に速いし、技術的にも磨かれていると思う。大学以降にそればかりをやってきたから。

でも、今回の本は違う形で「言葉」を使う必要があった。村上春樹がかつて、上のような技術的に仕上げることができるやっつけ仕事のような文章を「文化的雪かき」と形容した。今なら「こたつ記事」とでも言うのかもしれない。結論がわかっている文章を書くのは、一種の筋肉トレーニングのようなもので、動かし方をわかっている単語を、適切にはめていけばいいだけだ。それに意味がないとは言わないのだが、そこには軋みがない。歪みが存在しない。軋みと歪みは文章に澱みをもたらせ、読み手を困惑させる。もとより、書いている本人が一番苦しんでいる。だが、その軋みと歪みこそ、言葉を魂から出すときに、肉と骨を通って作られている証拠だ。全てのいい文章には、その声にならない叫びのような軋みが内在している。それを巧妙に隠すことのできる書き手もいれば、さらけ出し、叫び出すことで文体としている作家もいるが、どちらの文章もそこに書かれている言葉は最終的に「声」になって響く。文字が記号であることをやめ、受肉し、音を響かせる。そのような言葉でないと、もう俺にとっては書く意味さえない。もうすぐ織田信長が死んだ年になろうとしている俺に残された時間がどれほどあるのかわからない。スティーブ・ジョブスはかつて「もし今日が人生最後の日だとしたら、今やろうとすることを本当にやりたいだろうか」と、スタンフォード大学の卒業式で、エリートたちに向けて語った。エリートたちにとってはどんなふうに響いたのだろう。22歳の頃、私は「今日が人生最後の日」と言う言葉を、その言葉通りに捉えることができただろうか?無理だったろうと思う。理屈でわかっていても、横溢する若さが、その言葉の響きを拒絶したことだろう。だが、今の私にはよくわかる。衰え、日々失われていく可能性を意識する年齢になった今、「今日死ぬ」はいつでも起こり得る。一歳下の私の写真仲間が昨年末、急逝した。私はもう、そう言う歳なのだ。

だからこそ、かつて磨き上げた「置きに行くような文章」を今更書いても意味がない。残される時間を使って、ほんのわずかでも自分の歩いてきた道を、もう少しだけ先まで切り開きたい。誰かが後を通ってくれることを願って。

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